身体を動かす時に、動かそうとする意志と、動かす瞬間の意欲と、身体の内外を駆け巡る接触感を正確に分別しながら観察することは、正念を育てるよい練習になります。特に階段を昇る時、重いものを持ち上げる時など、体内の様々な筋肉の緊張と弛緩を生ずる運…

森の奥深く平安な静寂の中で清らかな日々を送る仏弟子達。日に一回の食事を摂り、この上なく爽やかに微笑んで禅定に励みます。彼らに過去への悔恨はなく、未来への期待もありません。LobhaやDosaで心を疲弊させる事はありません。心の対象は常に今この瞬間。…

気持ちのよい瞑想をしたいなら、自分のまわりの時間と空気が普段の日常よりずっとゆっくりたおやかに流れていると想像し、それに合わせるようなつもりでゆったりと息を吐き、そしてひそやかに息を吸っていきましょう。繰り返し訪れる今この瞬間が、あなたを…

お釈迦様は妻に贈り物をあげなさいとお説きになりました。夫婦関係は相互に怒りや嫉妬が生じやすいものです。自分の心に、或いは妻の心に怒りや嫉妬の萌芽が生じたら、贈り物を選ぶようにして下さい。怒りも嫉妬も自然におさまり、妻を喜ばせたい、という思…

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、接触を感じる、考える。それが今この瞬間に起こりうるすべてです。一心刹那の間、心は唯一つの所縁を経験し消滅していきます。経験は決して繰り返される事がありません。生きるとは何かそれ以上のものという期待に反し、生きるべ…

四念処法は仏智の高みであるが故に、それに相応するだけの熱い信がなければ五根のバランスが取れずに崩壊します。萎えた信で四念処を取り扱えば御法のすさまじさを知り得ず、四念処を軽視し貴重なご縁を失うのです。四念処は余りに深く、余りに高い。故に思…

静かに眼を閉じて心身のざわつきを呼気に乗せて、ゆっくり身体の外に吐いていきましょう。呼気はまるでサーファーが波乗りを楽しむようにあなたに喜びをもたらします。よく調教された自然な呼吸はあなたに健康と長命を運び、怒りを静め、幸せを増大します。…

心は無色透明無味無臭の水に喩えられます。善心所が心と共に生起すれば、かぐわしい香りを水に与えてくれます。不善心所が心と共に生起すれば、腐って毒性を持ったヘドロのような汚染水に変えてしまうのです。心は本来、湧き水の如く清浄です。あなたの心も…

利にさとく、智に暗し。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。高山の頂上では強風が荒れ狂い、深海は水の重圧が耐え難く、空の果ては誰も見たことがない。ただひとり輪廻する身の、身の毛もよだつ孤独と恐怖。それ…

夢の中では誰もが一流の随念者です。まるで眼の前に在るように見て、瑞々しく音楽を楽しみ、料理を嗅ぎ、味わい、食感を感じます。感情も思考も敏感に生起し、それを客観的に知る心まで生じます。随念では心をこのように使います。心にはその能力があるので…

Acinteyya(不能被思)とは、釈尊が弟子達にお前達の理解の限界を超えているから考えてはならぬと注意された四つです。仏陀の世界、禅定力、業と業果、そしてサンサーラの世界。実はこれらは祝福の源泉でもあります。私達の智慧が熟した時、これら四つから思い…

たとえ15分であっても思考が完全に止まり、心が呼吸や禅相に専注できれば、専注から出た後も心はそこに留まって最低1時間は現実に戻ろうとはしません。心身は鎧をつけたように外界から遮断され、三宝と一体となっています。大慈大悲という最強の防護服は、一…

お釈迦様のお姿を一目見ただけで悟りを得ることも、お釈迦様のお鉢にお米を入れただけで聖者の流れに入ることも、十分にあり得ます。お釈迦様の大慈悲の光が供養者に注がれ、彼のSaddhā(信)が清らかに燃え上がるとき、それはおこり得ます。師と弟子の心が…

お釈迦様は世間的な真理=世俗諦と、究極の真理=真諦の二つを説かれました。この二つを区別せず同様に扱えば、お釈迦様の説かれた深淵なダンマを知ることはできません。言葉という世俗諦に依存することなく真諦を示すことはできず、真諦を正確に了知しなけ…

私達が至心に八正道を歩む理由は、菩提心が生起し心をとろけさせたからです。私達が善なる意志を持ち、善意で語り、善意で行動する時、その根には一切有情への大悲があります。涙あふれる至福の喜びによって発菩提して以来、私達は消え入りたくなるような謙…

あなたと違う考えを持っている人や自分より劣っているとあなたが見做している人に対して、謙虚でいることを学びましょう。特にその方がいない時にその方について発言する時は、その方が目の前にいても語れる事だけを語り、いかなる敵意も慢心も言葉に含めぬ…

何かを成す為に必要となる知識や技術や実戦経験を身につける事、それが学びです。学びは本当に実現したい目標を実現する自由を得る事に他なりません。仏教ではそれをPariyatti(学得)と呼び、その段階を完成した仏弟子は手ぶらで森に入り、難解な修行法を自…

盲亀浮木の喩えで明らかな様に、人間として生まれる事がいかに難しいか、随念して下さい。また、たとえ人間として生まれても、仏縁を得て、仏法を学ぶ機会を得る事がいかに難しいか、随念して下さい。今まさにこの生において輪廻の苦から抜け出さなければ次…

あなたが持っている「私」という視点、それは五取蘊の一部でしょうか?もし「私」が五取蘊なら、毎瞬生起消滅を続ける現象という事になります。五取蘊は一切の名色ですから、「私」が五取蘊以外の何かなら名でも色でもないもの、即ち涅槃か概念となり、故に…

霊性を高める道に入ったら最高の高みを目指していきましょう。自分はこの程度、と思うその思考に煩悩が入り込んでいます。霊的な道を棄てると外的にも内的にも苦しむでしょう。あなたのアスピレーションは決してあなたを許しません。修行で得た精妙な感覚は…

エゴを抑えるには善心の生起が必要です。Jhānaが完成していれば禅定で力強く安定した善心が得られますが、そうでないなら別の方法を試しましょう。あふれる愛で三宝を思い、一体となり、涅槃へのひたむきな渇仰心で涙するのです。そうすれば心が浄められるあ…

自らが信ずる論を口にする時は、自我を決して出さぬよう気をつけて、一手間かけて控えめに語って下さい。相手の意見があなたと違うからといって、二人の決裂を意味するわけではありません。麗しい人間関係は同一意見を持つ事ではなく、お互いの意見を各々寛…

善意とは善き人々に生まれながらに備わっている性質です。善意に理由はありません。一切のものに善意を持つのです。人の善意を悪用する人に対しても悪意を持ちません。疑いを持つより騙されたほうがずっとよい事を知っているのです。善意の人に善を為す事を…

私達の五取蘊の連続体は刹那的生滅の流れであり、業の異熟と無明漏に依存して変化流転する現象です。自性として存在する絶対的安定は涅槃と呼ばれます。そこでは生じていない状態から生起することも、消滅した状態へ消滅することもなく、ある状態から別の状…

サンダルウッド(白檀)の木片を土中に放置すると、外側が腐って酷い腐臭を放ちます。しかしよく洗って擦り石で擦ると、あの素晴らしい香りが生まれるのです。世俗の穢れの中に有りながらも、自らを浄め、Bhāvanā(修行)で鍛えあげる意義を忘れないよう、私…

アナパナでは心が呼吸を離れ思考している事に気づく度に、意識を呼吸に戻して行きます。それと同じことを日常でも行ってみましょう。心が思考し、所縁から所縁へと移ろいゆくのを気づく度に、意識をその時の呼吸に移してしまうのです。あなたの一日は、仏の…

歩きながら「歩いている」と認識するだけでは、Satiが働いているとはいえません。その程度のことは不善心でも可能です。Satiを実際に働かせるには、最低でも「歩いている」と認識している心を認識しなくてはなりません。できればさらにその心を認識して、非…

絶体絶命のピンチに陥ったとしても安全に抜け出す方法は必ずあるものです。瞑想でもいい、随念でもいい、経典読誦でもいい、とにかく心をKusalaにすること。Kusala Cittaさえ生起すれば、最悪の事態を避ける事ができるのです。不安や恐怖、絶望や怒りは、状…

八正道をまっすぐ歩んで行くのは大変です。道の両側には至る所にご休憩の看板があり、私達を脇道に誘います。貪りの刺激や怒りの刺激が、善良ではあるが弱い心を簡単に捉えます。愛する家族が待つ家に急いで帰るように、脇目もふらず八正道のゴールを見据え…

どんなに素晴らしい理想であれ、多くの人々を利する改革であれ、それを攻撃と破壊によって達成しようとするのなら、私は決して支持しません。ペンによってであれ剣によってであれ、人々を一切害してはならないのです。改善は自らの貪りを離れ、衆生への慈悲…