2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧

持って生まれた優れた資質は、解脱の為の諸刃の剣です。その資質を活性化し、大きな推進力に昇華させることは、もちろん重要ですが、それ以上に、その資質を持つが故に生じやすい貪や慢心が、自らの解脱を阻む最大の障害となりうることを見逃してはなりませ…

翌朝には荷物を持って宿を出ていく旅人の様に生きる。それが出家者です。この輪廻の生存はうたかたの宿に過ぎません。自分の物は何もなく、定住する場所もありません。いつでも跡を濁さずに飛び立てるよう、荷物を詰めたまま一眠りする。この世にそれ以上の…

ダンマは誰の専有物でもありません。私達が存在していようがいまいが、一切の内にあるがままに遍満しています。ちょうど雨の中でコップを差し出すと、中に雨水が自然にたまっていくように、私達の心が禅定に達すると、サイズに応じて受け取れるだけのダンマ…

八正道とは即ち、戒定慧の増上三学です。戒とは「不善を恐れ、その些細な兆候をも監視し、不善生起を決して許さない」ことであり、レンズの焦点を合わせるように、心のピントを合わせてくれるのです。フォーカスが完全に合ったとき、心はそのまま自動的に、…

私達は人生で遭遇するあらゆる人や物や状況を、見たいように見、聞きたいように聞き、感じたいように感じ、評価したいように評価し、それらの幻想に対して、貪りや怒りや無明を燃やし続けます。私達が信じているものは「本当はそうではない何か」です。この…

不快感、嫌悪感、怒り、嫉妬を感受する時、表面的な原因を外部にもとめ、他人に害意を抱くのは、心が非常に幼稚な段階にある証拠です。五門に生起する現象に対する知覚は、自らの過去の業の結果です。すべての因は我にあり。この理法は仏教の基本です。骨の…

生まれ、生まれ、死んで、死んで、心の連続体は徐々に成熟していきます。メリーゴーラウンドに乗る心、乗らない心、世の価値観に依存する心、背を向ける心。心は成熟度によって様々な選択をします。人生の最後に智慧で無常・苦・無我と向き合える心は、解脱…

安般念を修習し完成させる為に必要な五つの法があります。1)僅かな不善を為す事も恐れ、常に善行を為すこと。2)煩瑣な雑事を避け、少欲知足と質素な生活を旨とすること。3)食の質を貪らず、少食に徹すること。4)睡眠を貪らず、瞑想行に精勤すること。5)…

山のように情報を集めても、何も学ぶことはできません。良質な教科書を熟読し、選りすぐった事例を参照し、暗記すべきを暗記し、随念すべきを随念し、知識の骨格を自らに構築していくことこそが学びです。故にいつの世であっても、何を学ぶにしても、最高の…

輪廻の世界にあって、あなたは何を求めていますか?Kāma(愛欲)ですか?Attha(利益)ですか?それともDhamma(法)ですか?何を求めるにせよ、決して人を傷つけず、慈心を前面に打ち出しつつ、求めて下さい。そうすればやがてあなたの心は熟し、Mokkha(解脱)だけ…

戒の本懐は自らを律することです。我が想いと言葉と行動は、不善ではなく善なる意図によるものであると確認し、それは師を喜ばせるもので、ダンマに適うもので、世尊が是認されるものであると確認するのです。このようにして人は心に一点の汚れも迷いもなく…

現象を観察しようとしている「私」や、禅定の対象に専注しようとしている「私」がいる限り、観察も専注もできません。「私」は修行を妨害する元凶です。私達は清らかで美しい心を因として、人間に生まれてきました。今あの心を前面に打ち出して下さい。あの…

私達が生きる人間界という境界には、畜生と餓鬼、及び四天王界に属する、一部の地上神が同居しています。慧眼をもって彼ら有情の名色を観る時、足がすくむようなサンサーラの苦が心を席巻します。一刻も早く輪廻から脱出しなければない!居ても立ってもいら…

他人に向つて自分の戒律や修行を言いふらす人は、聖なる真理に至っていない人であると、真理を証悟した人々は語ります。安止に住している修行者は直弟子以外に対し、「私はこうしている」とか、「あなたはこうすべきである」と言う事はありません。戒律も修…

想い描いた理想の自分や生活と、現在を比較して落ち込んでいませんか?夢や理想は単なる概念です。自分を奮い立たせるカンフル剤として使える時に使えばいいのです。役に立たないのなら、囚われず捨て去ってしまいましょう。今この瞬間から最善のものを紡ぎ…

無自性は、生起消滅する一切の名色に本源的に内在しています。楽しい事も、辛い事も、一瞬一瞬過ぎ去っていき、色彩のない枯草のような記憶になっていきます。そこに自性はありません。一つの例外もなくすべての現象にこの理法を観て、輪廻の生存の本質的苦…

仏陀の教えは漆黒の夜の雲間に一瞬煌めく明星のように、ほんの一刹那、世界に現れ、すぐに消えてしまいます。しかも大部分の人々は、見上げることすらしないのです。地上にダンマが存在している時間は実に短く、それにアクセスできる人々はさらに稀です。仏…

「私ならできる」そう自分を信じるのではありません。ゴールを信じ、そこに至る道を信じ、自らの五取蘊を制御して、その道を粛々と歩ませていくのです。お釈迦様はすべての善なる人々の為に、救済をお説きになりました。修行成就は個人の能力ではなく、三宝…

蓮池に囲まれた山頂のクティまで獣道を登ること30分。毎日午後3時半から4時まで師との独参。かけがえなき寂滅のダンマを経験する。なんという清らかさ!なんという至福!あの現実離れした半年間で私が掴んだものを篤信の修行者に手渡すのが私の使命です。瞑…

四聖諦は謬見の故に十二縁起として表象します。十二縁起が止まれば苦は消滅します。十二縁起を止める唯一の道は、四聖諦の正見です。四聖諦の正見は戒定慧の三学に依ります。戒定慧を開けば八支聖道となり、八支聖道を開けば三十七菩提分法となります。私は…

師弟相伝の指導なしに、仏教を体得する事はできません。どれ程の熱意でダンマを学ぶか、どれだけの独参を受けて法を感得するか。七清浄は川の流れの如く、基本に沿って流れていきます。厳格に菩提分法に従って下さい。そうすればやがて美しいGocara,文字不立…

いかに基礎理論を発展させ、高い技術革新を達成しても、いつか確実に陳腐化します。巨万の富も美貌も栄華も、一瞬で過ぎ去り、苦の因に変化します。浮世で競い合っても、絶対を求めても、結局は苦しいのです。心を成長させ清らかな喜びに我を失う、そこに生…

この世で富貴を追い求めて生きれば、多くの不善心の生起を余儀なくされ、耐え難い苦しみの因が生じかねません。人間界での価値の交換は通貨によって為されますが、六欲天の通貨は蓄積された福徳です。どんなに厭わしい生存でも、ほんの少しの善なる思いさえ…

一切の形成された事象は持ちこたえられず、音を立てて崩れ落ちていきます。修行の最終段階に至ると極微なるその実相を如実に観ることができます。その時あなたは諸行を厭い、涅槃を希求し、法悦の涙を流しながら、間近になったあの平安なる境地に向かって猛…

不善業の果実はまとまって畳みかけるように結実する傾向があります。それは暴風雨のようなものですから、一般的には収まるまで動かず平静な心で待つのが得策です。しかし智が熟した修行者は、不善業果から如何に善心を繰り出すかに挑戦します。絶望的な憂い…

瞑想は心を清浄な至福で満たしてくれますが、もしまだ不善思考で終始するようなら、あなたは技法を練習しているに過ぎず、心を調教する段階には至っていません。その場合、瞑想だけでは修行になりません。身の周りの事象の中にダンマを見出して随念し、しみ…

かつてあれほど燃えさかっていた菩提心が、どうしておき火にもならぬ程に萎えてしまったのでしょう?火を長時間燃え上がらせる為には、燃料と水と風が必要です。ダンマという燃料、随念という水、そして三宝という風が必要なのです。柴燈護摩では水と大ウチ…

自分は仏教修行者である、と自覚している限り、あなたは大丈夫です。道を踏み外すことはありません。では修行者とは?修行者とは与えられた修行を、1日も欠かさずやり続けている人です。行の厳しさと喜びの中に生きている人です。修行が途絶えれば心は不善…

社長は倒産の危機となれば、債権者や銀行、株主に頭を下げ、立て直しに全力を尽くします。もし彼が自分の快適な生活を守る事を優先するなら、誰も彼を助けてはくれません。無常、行苦、無我の実相を厭い、涅槃証悟を目指しつつ自我を放棄しないなら、どうし…

釈尊は19才の我が子Rāhulaを比丘ではなく沙弥として出家させ、13年間その身分のまま、徹底した下座行をさせました。彼はその後Sariputtaの見習い比丘となり、10年間の修行と奉公を経て42才で独立し、7年後に阿羅漢を証悟したのです。最愛の息子の涅槃への最…