2019-04-01から1ヶ月間の記事一覧

善業であれ、不善業であれ、つくられたすべての業は、業果を生じます。善果は善なる境涯へ、悪果は四悪趣へと結実することにより、どちらにしても私達を無明の生存へと縛るのです。つまり善/不善業の根本因は無明であり、「無明によって行(=業)が生ずる…

菩提心の生起は神秘的です。善なるものを求める清らかな心は、私達の名色の連続体に本源的に内在しています。そして条件さえ揃えば、前触れなくわき上がり、私達の心を甘美な至福でとろけさせてくれるのです。なんという祝福でしょう!燃え上がる菩提心があ…

言語に絶するものを言葉に置き換える事はできません。心をとろかす音楽の感動は、何万語を費やしても表現できません。白桃の甘さも、白檀の凛とした香りも、心に感じる慈愛も、言葉で表現する事はできません。言葉は不完全で不正確な手段と知って、思考に依…

求めても、求めても、世界のすべてを手に入れることはできません。つかんでも、つかんでも、心は決して満たされません。本当の幸せは「足ることを知る」にあります。足ることを知れば、心は清らかな充足感で満たされます。心が満たされることが幸せです。離…

いくら瞑想をしたからといって、彼岸に到れるわけではありません。これ以上修行を空回りさせないために、私達はまず菩提心と波羅蜜で、瞑想に命を与えなくてはなりません。日々菩提心を養い、清浄な福徳を積むことを心がける。そうすれば自然に瞑想は完成し…

他人を攻撃したり、嫉妬したり、勧善懲悪の刺激を貪ったり、要するに瞋(Dosa)に心が席巻された時、誰も私達を愛してくれない事に気づきましょう。Dosaの実践は、灼熱の鉄バットで相手を殴る行為に喩えられます。相手に一撃を加えられるかは分かりませんが…

私達はすべての人々を師と見做すことで、たいへん多くを学ぶことができます。ある人に美点や優れた点を見つけたら、自ら真似て同じ徳を身につけるべく精進します。別の人に不適切な点を見たら自らを省み、同様な過失を犯さぬよう十分に注意を払います。正に…

もし私がそのダンマを知っているのなら、「私は知っている」と認識します。もし私がそのダンマを知らないのなら、「私は知らない」と認識します。その両方があって知識となるのです。知っていることだけを大声で語り、知らないことを知らないと語らないでい…

心を不善業道に導くような、対象を見てはいけません。音声を聞いてはいけません。言葉を発してはいけません。行為を為してはいけません。「見ざる、言わざる、聞きかざる」を、外からのインプットである五門と、アウトプットである身口意の三業門を、しっか…

社会の評価はローカ・ダンマの領域です。できるだけのことをしたら、あとは手放してしまいましょう。世間の人々は誰も本当にはあなたの事を知らないのです。あなたが為すべきことは、自分にまだ不足している資質や未完成の能力を、完成させることです。それ…

安般念修行者にとって、入息と出息はお釈迦様の御心へと通ずる扉です。如何なる業果が訪れようと、呼吸を観さえすれば、いつもと同じ自分の入出息がそこにあります。お釈迦様の御心がそこにあります。何を気に病み、何を恐れる必要があるでしょうか?呼吸は…

「他人の目にどう映るか」という視点を、完全に取り去ることができたら、どんなにいいでしょう。「いかに今この瞬間を善なる心で生きるか」に徹することができたら、どんなに素晴らしいでしょう。その時私達は、他人に見せるための人生を脱して、自らの為に…

業果の怖さを知る仏教者は、世俗を生きるには断崖絶壁の道を旅する用心深さが必要だと痛感しています。一瞬の怒りの爆発が功徳の林を焼き尽くし、自ら歩く道をも谷底に崩落させてしまうのです。怒りや嫉妬の激情を、行動や言葉で暴発させる刺激は抗し難く、…

「私」という誤った見解がなければ、渇愛の対象に対する、「私のもの」という感覚も生じません。もし「私のもの」という思いが心に生起するなら、「私」という謬見がそこに存在しているのです。「私」を根絶しても、渇愛は残りますが、顛倒見から生ずる「私…

無常・苦・無我の対象を、常住・常楽・実体であると見誤って認識する心には、愚かな論理思考が生じ有毒な煩悩が生起します。それを避ける事はできません。対象を無常・苦・無我であるとあるがままに了知する心には、如何なる戯論も生じません。それは中道で…

他の原因や条件に依存せず、自性のみによって生起する現象はありません。他に原因があり、生起の為の条件に依存して、ある現象が生じる時、その現象は、それ自体に内在する自性によって生起したのではありません。これが無我であり、空であるという意味です…

遙かなゴールだけを見つめ、 ぶれる事なく、 一本道を歩き続ける人でいて下さい。 様々な卑近な雑事の為に寄り道をしたり、 歩くのをやめることのないように。 過去の人生ではいつも、 路傍の花を愛でて寄り道をしてきたのです。 これを最後の生存にしたいな…

ある種のゴールは、成就する直前に絶体絶命のピンチが訪れます。不測の事態が「これでもか」と次々に起こっても、悲観的になってはいけません。成就が近いというサインかも知れません。世間では、ちょうどオセロゲームのように、最後の最後にすべての石が裏…

傳修院で無礙解道・業論の伝法を始めました。 十二のアルゴリズムで業を識別するこの小論に沿って、 業と業果の関係を考察すると、 行苦の逃げ場の無さ、諸悪莫作・衆善奉行の本義が、 圧倒的説得力をもって心を席巻します。 お釈迦様から舎利弗長老への法流…

人間関係は良いにつけ悪いにつけ、 誤解、幻想、期待の上に成立しています。 観想に巧みな修行者は、 自身を相手の立場に置いて、 利害損得、執着、自負心、愛憎、嫉妬、不安、 吝嗇、義理人情の微妙なニュアンスを、 手に取るように理解することでしょう。 …

お釈迦様は、縁起は甚深で悟り難いと言われました。 十二縁起は仏教の根幹であり、 一切法がそこに内在しています。 心・心所と漏、業と業果、行苦、輪廻転生、 五蘊、名食、触五法、心路過程、四聖諦。 すべてが矛盾なく開示されています。 修行者にとって、…

慧はIntellectual Stimulation(知的刺激)から得られるものではありません。 知的刺激は自我肥大を欲する心の領域です。 仏教の慧は菩提心と禅定から生じます。 菩提心は信とそれに随起するDhammacchanda(法欲)より生じ、 信はSaṅkhāra Dukkha(行苦)の…

一連の初転法輪説法でお釈迦様が開示されたのは、 中道、縁起、四聖諦と無常・苦・無我の三相です。 それらこそ仏教の眞髄であり、 人を苦の滅尽に導くダンマであり、 信と禅定で慧根を陽転させて、 自ら証悟するべき真理です。 仏教とは戒定慧の三学である…

人々の大半が同じ信仰を持っているのは、 過去に主権者による他宗教排斥があったからです。 上座部大寺派も例外ではありません。 私が希求しているのはそんな国家仏教ではなく、 世の流れに反した、自由で瑞々しい、 凛として高貴な、お釈迦様ご自身の仏教で…

瞑想会を終え、 身支度を整えて道場を出る際は、 「行って参ります」と、 至心に本尊に一礼いたします。 そのまま、 入息と出息を見失わないよう、 ブッダ・ニミッタが消滅しないよう、 心をガードしつつ、 ゆっくり駅まで歩いて行きましょう。 菩提心を失わ…

Pariyattiとは、 一つ一つの言葉の意味を知り、 スタンザを読み、暗記し、 ダンマの定義を正確に分別すること。 Paṭipattiとは、 Pariyattiとして身につけたダンマを、 信、布施、戒律、慈悲、止観の修行として、 活かし実践していくこと。

本格的な瞑想修行には、強固な土台、メディテーション・アンカーが必要です。アンカーに対するトータル・コミットメントなしに、修行を大きく前進させる事はできません。ブッダ・ニミッタと入出息をアンカーとし、朝から夜までずっと共にいる事を決意し実行…

毎朝、ほんの少しだけ早く起きて、 世俗の生活に入る前に、 自分のために時間を使ってあげてください。 至心に仏法僧に祈りを捧げ、 10分でいいから、 入息と出息を見つめながら思考を止めてみましょう。 この習慣を10年続けることができたら、 いったいどれ…

ニーチェはツァラトゥストラに語らせています。 「我は血をもって書かれたもののみを愛する。 血で書く者は読まれることを欲しない。 暗誦されることを要求する。」 正に釈尊の御遺言に通ずる言葉です。 魂で語られた真理だからこそ、 全身全霊の随念に耐え…

受容と離貪は、 私達にとても大きな力を与えてくれます。 私達が自分の弱点をあるがままに認め、 それを受け入れさえすれば、 その「手放し」によって、 圧倒的な力が湧き上がってきます。 逆に、自らの力をたのんで過信すれば、 私達はその傲慢さによって、…