2018-01-01から1年間の記事一覧

修行の一進一退を気に病む事なかれ。 修行とは我見を離れるプロセスです。 我見がなければ修行する当体はなく、 修行の一進一退もありません。 熟達した沙門の修行は単純です。 一瞬一瞬生起消滅する名色の連続体を、 ただあるがままに智見していく。 やがて…

信は先入見、無精査の受容、 見への固執、盲従等の意味を含みません。 故に仏教の信に如何なる条件も必要ありません。 信の相・味・起・因には、信が如何なるものか、 余すところなく開示されています。 輪転王の貴石が濁流を浄水に転じた如く、 信の味は身…

過去世の異熟は今生を波瀾に満ちたものにします。 次々と襲いかかってくる逆境にどう対峙するか。 鍵は「異熟は平安なり」と知る事です。 肉体的苦痛を伴う場合を除き、 すべての異熟は平安です。 渇愛ではなく無常・行苦・無我を念じ、 中捨の心で対処して…

和顔施・和語施、礼儀作法、 布施行、戒行、経典読誦、 作務、日々精励など、 所謂仏教修行の「いろは」は、 身心が善き習慣を覚え込むまで、 最初は徹底的に修習されなければなりません。 善き習慣が身につけば、 修行を自分のものと感じるようになり、 や…

無条件の慈愛、無条件の抜苦与楽心は、 この世における最高の防御であり、 最強の武器といわれます。 修行者の大慈大悲の心は、正に太陽の如く光り輝き、 誰も彼に危害を加える事はできず、 貪や瞋が心に生起することもありません。 かくして彼は四悪趣に陥…

「師は弟子に奉仕しなさい、弟子は師を愛しなさい。 夫は妻に奉仕しなさい、妻は夫を愛しなさい。 社長は社員に奉仕しなさい、社員は社長を愛しなさい。」 これはお釈迦様のお言葉です。 なんという端正な教えでしょう。 私達は何度も随念して、 このダンマ…

過去や未来、施設(せせつ=概念や思考)を摑み、 今この瞬間から目をそらす事は、 輪廻の生存を摑む事に他なりません。 それらを厭い、 今この瞬間の対象に我を忘れられるなら、 それが解脱に至る修行の実践となるのです。 さらに、 今この瞬間の名色からも…

「みんなが~してる、みんなが~を持ってる、 みんなが~と思ってる」 少数のサンプルを無理矢理一般化してしまうこの傾向は、 私達の不善思考の中でも最もタチの悪い悪癖のひとつです。 前提概念が戯論なら、 以後の思考の組み立てが幾ら論理的でも、 決し…

受け入れ難い問題の解決を迫られた場合、 怒りや嫉妬、不安やパニックの感情に支配されたまま、 問題に向き合ってはいけません。 まず無常・苦・無我の三相、八種の世法、 離貪・慈・悲の正思惟の中の適切なダンマを深く随念し、 大局的な視点に立って、 苦…

私はダンマについて一切妥協するつもりがないので、 どの既成部派にも属さず支援も求めないと決めています。 苦労困窮は覚悟の上です。 菩提心ある方々に正法を伝え彼岸に導くという誓願の為なら、 どんな辛苦も厭いません。 願はくばお釈迦様の教えにより、…

あなたがダンマと見做すそれは、本当にダンマですか? それは瑞々しい驚きと感動に溢れていますか? ダンマの前でもう一度謙虚に、自らに問うてください。 それはダンマですか? それともあなたの先入見ですか? ダンマに対して、誠実に謙虚になってください…

両舌、妄語、悪口、綺語は、修行者の心を汚します。 これらが伝える不善言説を、 事実と見做してはなりません。 真偽不明の疑説として、 速やかに記憶から削除してしまいましょう。 事実とは、あなた自身が体験を通して本当に知っていることをいいます。 六…

五蘊とは様々な現象に依存しつつ生起消滅する、 名色の連続体です。 他に依る事なしに五蘊は存在しません。 故に自らの色蘊を境界として、 その内側を「私」と認識し、 「私以外」との対立軸を構築してはなりません。 「私」とは五蘊が感受・思考する際に仮…

人は受け入れ難い事象を経験し、 転倒見の故に粗雑な感情を生起させてしまうと、 以後その出来事を思い出す度に、 何度でも同じ感情が暴風雨のように吹き荒れ、 苦しみ続けます。 すべての原因は転倒見にあります。 唯一の解決法は無理をせず少しずつ、 ある…

私達の貪瞋痴は、 その転倒した見解により、 対象を見誤って捉えます。 そこで知覚されるのはあるがままの現象ではなく、 概念作用によって誇張・変容されたイメージにすぎません。 しかし煩悩を一時的に抑制し、 観行によって対象をあるがままに智見できれ…

平安を求めるなら、 今すぐ思考を止めなければなりません。 智慧を求めるなら、 世俗の知識を学ぶのを止めなければなりません。 かつてラーマクリシュナはいいました。 「私はこんな学問に興味はない。 結局のところ、ほんの少しの銀貨、 多少の米や野菜を手…

病や障害で苦しんだり、 社会の冷たさに傷ついている方々の多くは、 瞋恚で心を固く閉ざしています。 人の心は「私は受け入れられている」と実感して初めて、 開いていくものです。 私達の優しい微笑み(和顔施)と慈みに溢れた言葉(和語施)が、 人々の心…

反省を強いて人を苦しめないようにしましょう。 喩え間違いを犯しても繰り返さぬ決意をし、 明るい心で改善していくならそれでいいのです。 人を傷つけてしまったら心から謝罪し、 明るい心でその人の善友になればいいのです。 仏教的にはそれで十分です。 …

ダンマの学びは地図を頭に入れる作業、 瞑想の実践は、 その地図を頼りに自らの足で行道する事に喩えられます。 学びがなければ実践はなく、 仏道証悟は望めません。 学びは清浄で知的な喜びを伴い、 実際に行道を歩んで高山の空気を吸うことは、 学びが色あ…

生まれや年齢、外見によって、 健康や肉体能力、技能によって、 知識や知能、出身校によって、 職業や地位、業績によって、 評判や人気、人徳によって、 口座残高や財産、名誉によって、 他人を判断してはなりません。 私は傳修院の参学者全員に、 以上を暗…

お釈迦様のダンマに従って、 一切を生起消滅する名色の連続体として捉えると、 「今、この瞬間」がずっと継続している事が分かります。 そこでは束の間の幸せは色あせ、生存の苦しみも意味を失います。 一切は無常であり、行苦であり、無我であるとの確信は、…

仏教は聞法から始まります。 聞法は一期一会です。 菩提心に胸がとろけ、 清らかな涙が溢れ、 心と身体を震わせながら、 ダンマを受け取れたらどんなにいいでしょう! 映像や音声、文字だけで、 仏教を学ぶ事はできません。 可能な限り直接ダンマを聞き、 全…

今、この瞬間の名色とともにあるとき、 その現象に専注している一境性も、 その識別を為そうとする精進も、 それを識別している「私」も、 どこにも見つけることはできません。 そして出定した後は、 仏法僧への甘美な陶酔と、 藁クズのような過去や未来を厭…

あらゆる現象は「老」に持ちこたえられず、 腐敗し変形しバラバラになっていきます。 最先端の科学技術も、 やがて石器時代の技にしか見えなくなるのです。 執着に値いするものは何もありません。 私達の生きた証し、 それは手にした外的なものではなく、 「…

空が白む前の清浄なる静寂。 空が柿色に染まる日没の豊穣なる神々しさ。 この二つの神聖な時間を、 どのように活かすか。 太陽と月からの祝福を身体一杯に浴びながら、 その周期に従って呼吸し、淡々と修行していく。 お釈迦様はその様に生きられました。 私…

毎日定時に一定時間、 地道に瞑想修行を続けていくと、 禅定には至らないまでも、 時々深い専注に入れるようになります。 その一座の後の、 身心に拡がる清らかな感覚を、 しっかり覚えておいて下さい。 静かに息を吸って吐けば、 いつでもその意識に戻れる、…

害意は誰にとっても、割に合わない衝動です。 他人を傷つけられるかは五分五分ですが、 意図した本人は確実に大やけどを負い、不善業道を歩むことになります。 攻撃の刺激への貪りの代償は、余りに大きく悲劇的です。 何度でも繰り返します。 どうか他人を害…

涅槃への道は世間の流れに反しています。 出世間に至るには、 「信」と「ダンマへの希求」という推進力が必要です。 心は移ろいやすいものであり、 燃え上がるアスピレーションなしには、 ほんの一瞬であれ、 瞑想の対象に専注することはできません。 まして…

縁起とは一因一果ではなく、 多因多果の複雑な関係性です。 多くの条件が絡み合って、 一つの現象が生起します。 縁起を精密に識別していけば、 現象の生起因を特定の何かに帰する事は、 決してできないと分かります。 原因ではなく現象に対する反応をこそ、…

一日二十四時間、睡眠中でさえ、 快の矢と不快の矢は、後から後から際限なく、 心に突き刺さり続けます。 一切抵抗せず、 「私の快ではない、私の不快ではない」と取り合わぬこと。 うるさく付き纏う貪りの対象から離れ、 貪るが故に生ずる苦から自由になる…