2019-09-01から1ヶ月間の記事一覧

自分や他人の欠点を指摘したり、過去の怒りや悲しみ、嫉妬を、蒸し返すのはもうやめましょう。暗闇の中でいくらモグラ叩きをし続けても、明るい明日は訪れません。暗闇の中に一条の光を見つけたら、光に向かってまっすぐ突き進んでいけばよいのです。そうす…

ダンマがキラリと光る瞬間があります。その時は自らの身口意が三宝に祝福されていると、確信して下さい。三宝は私達に光で祝福と是認を与えてくれます。進むべき道を示してくれる事もあります。私自身、何度助けられたことか。三宝の光があればこそ、何とか…

修行を続けていると、同じ事を長くやり続けられることこそが才能だと実感します。伝教大師は「最下鈍の者も十二年を経れば必ず一験を得ん」と説かれました。成功する秘訣は、決してやめないことと前進し続けることだともいいます。十年一日の如く同じ事をや…

仏教は完全な他力ではありません。為すべき事を為し尽くし、後は手放して、仏様に一切をお任せして、唯待つ。それが自力と他力の調和した形です。仏様の教えに従って、やるべき事を全力でやり尽くした時、たとえそれが小さな一歩であっても、仏様は99歩あな…

なぜ瞑想をするのかと問われれば、「善なるものを求めて」と答えます。自らを利する何かを得る為でも、本当の自分を探す為でも、夢を実現する手段としてでもなく、善なるもの、すなわち心を高揚させる何か、無条件の愛と智慧に溢れた、心をとろかすような神…

修得の道において個性が重要となってくるのは、大抵の場合、ずっと先になってからです。「学ぶ」とは「真似る」で、とにかく完全に同じようにできるよう、徹底的に練習することが、何より大切です。早い段階で個性を口にすれば、「それは真似ない、学ばない…

「拝む」とはどういうことですか?「自分」を心の芯に置いたまま、こうして下さい、ああして下さいと願うのは、祈っているのであって、拝んでいるのではありません。拝むとは摑んでいる物を手放して、我が身を仏に放り出してしまうこと。放り出せばカラにな…

修行の醍醐味2仏様のご加護は光と共にやってきます。私は独りじゃない!仏様がずっと見ていて下さっている!と実感します。正に修行者冥利に尽きる瞬間です。そんな二人三脚の修行の継続が不動の修行者を育てるのです。私は皆さんにそんな修行の醍醐味を、…

修行の醍醐味1仏様と約束して、毎日決めたことを確実にやり続けること、それが修行の本懐です。自分の頬を強く平手打ちしながら睡魔と戦ったり、どうしても心の散乱が収まらず、夜中に冷水シャワーを浴びたり、そんな地道な努力を続けていくと、仏様が助け…

お釈迦様は慈経で、母親が命を賭けても独り子を守るような利他の心、我が命を投げ出してでも、生きとし生ける有情の幸せを祈る心の尊さを、教えて下さっています。今この瞬間、私達の心にその想いがあるでしょうか?その想いが無ければ、なんのための仏教で…

毎日何時に起床し、就寝したか、何時に何を食べたか、1日何度瞑想したか、何を学習したか。傳修院で六十日行を修行している方は、必ず修行日誌をつけて下さい。そしてそれらを四正勤法で分析し修行に役立てて下さい。健康が気になる場合は必要に応じて、バイ…

私達は無明に眼を塞がれ、無常・苦・無我・不浄を、常住・常楽・実有・浄美と見誤り、悪業を形成し、煩悩を蓄積し、三界をさまよい続けます。これは無明に汚染されている私達は本来清浄で、無明を根絶すれば解脱できることを意味します。これが自性清浄とい…

本当の安心はどこにもありません。実相世界は一瞬一瞬消え去っていて、何も維持できません。安全な避難所は何処にもなく、責任をとるべき誰もいません。「私」という現象の連続体は、濁流の如き貪瞋痴に眼を覆われ、摑む何かを求めつつ、得られぬまま、やが…

鋭い気づきに伴って深い智慧が生起します。その正念正智が心底に強く確立されると、世の無常が明瞭に了知され、離貪に心が傾くのです。その時、止と観の修行への燃え上がる情熱が生まれます。その想いは金剛・不動であり、何ものにも妨害されることはありま…

神聖さを守護する為、敢えて厳格な様式をルール化する場合があります。例えば傳修会で内陣を荘厳する際は、マスクと手袋を着用し、二十四縁起略説または浄三業・三部・被甲で三業を清めた後、本尊、五具足、六器、華鬘、供物を整えます。撤去時もこれに準じ…

適量の睡眠の後、早朝に目覚め、食物は午前に適量を摂れとされています。その上で姿勢を調え、息を調え、心を調える。以上の五調和が得られれば、三昧を得るのは困難ではないとも言われます。容易か否かは別として、先ず基本条件を絶対に崩さず修してみる、…

ダンマの勉強が進まない、梵行が進まない、瞑想が進まない、万人に共通の悩みです。結果を得たいなら、投資をすればよいのです。菩提心が燃え上がる至高の時間を投資すれば、誰でも素晴らしい善果を得る事ができます。若い人達も熟年の方々も、三宝から想像…

ダンマを深く随観し修習していくと、ミャンマーの僧院に本当の仏教があるとの見解は誤りであると、次第に知ることになります。十代の頃愛読していた秘蔵記を読み返し、そこに道品法の霊妙な秘伝が記されているのを知りました。日本に生まれ、日本で仏縁を得…

苗木には囲いが必要です。真摯な修行者は、無防備に所縁を受け入れてはなりません。マスメディアはあなたの目の前に、貪、慢、瞋、嫉の有害な刺激をちらつかせて、利益を得ています。その仕組みを理解すれば、心を汚染するTVやネット、紙媒体に、大切な時間…

肉体的痛みと精神的不快という世間苦の二辺を超えて、存在に内在する行苦を如何に実感することができるか、そしてその実感から如何に仏法僧に対する信を紡ぎ出せるか、仏教への適性が問われるところです。その発菩提の瞬間に、彼は輪廻の輪から飛び出して、…

ゲームのルールを覚え、戦略やトリックを修得し、何時間もプレイに熱中する。おそらくそこには、様々な喜びや興奮があるのでしょう。しかしゲームに時間を費やすことに、いかなる意味も見出せない人達もいます。仏教の真理に近づいた人は、輪廻する生存に対…

日本仏教は葬式仏教と揶揄されますが、私は素晴らしい伝統だと思います。涅槃経に見られる釈尊を弔った様式が、今も日本風に継承されており、そこには故人への尊敬と追善の思いが溢れています。一度様式を破壊すれば元には戻りません。素晴らしい伝統を大切…

壊れて動かなくなった時計でも、修理すれば再び時を刻み始めます。お釈迦様の本意が誤認され、正しく修習されずに放置されたダンマであっても、如実に智見する眼のある沙門により、そこに魂が注入されれば、再び涅槃への門は開くでしょう。まだ三蔵がそこに…

言葉や行動で人に危害を加えようとし、ついに目的を遂げたとしたら、あなたは取り返しのつかない事をしたことになります。その業の報いから逃れるすべはありません。社会的にいかなる理由があるにせよ、仏教的にはあなたにいかなる正当性もありません。です…

夢や希望があるから生きていける・・小さな幸せに生きる喜びを見いだす・・生存は渇愛を因として廻っています。その渇愛が苦の生起因であると集諦は教えます。生存は苦であると知りつつ輪廻を止められぬ私達は、まるで麻薬中毒者の様に「解決なき破滅への道…

一つの言葉に託す意味と範囲、行間の佇まいや情感は各人で異なるが故に、言葉は論理的な意思疎通には向きません。釈尊は法や慈悲を伝える補助手段としてだけ言葉を語り、後は聖黙を保てと説かれました。言葉の限界を知り、詭弁で人を傷つけぬよう念じつつ、…

「私」と誤認される現象は、刹那的に生滅する名色の連続体です。眼耳鼻舌身意の六門を入力とし、身口意の三門を出力とする、無始無終の永久自燃機関とみることもできます。眼耳鼻舌身の五門入力は変更不可の受動条件であり、意門入力と三門出力は、修行者が…

訊かれないのに「私は、私は、」と、自分の事を話すのはやめましょう。自分と相手を比較する為の質問や、相手を批判をする為の質問をしてはいけません。語られる言葉を静かに聞くだけでよいのです。自分について訊かれた時だけ謙虚に誠実に応えましょう。こ…

死は突然やってきます。あなたがいくら死を先延ばししたくても、もう誰も、あなたに特別な処置を施すことはできません。それに気づいた瞬間、全身からサーッと血の気が引いていきます。周りの一切がセピア色に変わり、自ら苦の因であることを露呈します。そ…

知り合いの米国人の富豪の手元には、高級品が次々と集まってきます。彼は少し楽しみ、一切執着せず、すぐに慈善団体に寄付してしまうのでした。私は手離れのいい彼に、現代社会における一つの「無執着の形」を見ます。僅かな所有物に強く執着するより、ある…