2019-08-01から1ヶ月間の記事一覧

一度でもダンマから眼をそらせば、離れることへの抵抗感は薄まり、やがて心は種々の感覚的刺激対象に席巻され、身動きがとれなくなるでしょう。永遠と言ってよい程の長期間、あなたはダンマを失い、ダンマもあなたを失うかもしれません。そうなった時、マー…

十代の若者が未熟な運転で老人を轢殺してしまいました。残された老妻は賠償を求めず、警察に減刑を懇願し、貧困で大学進学を諦めた彼に、入学から卒業までの全費用の支援を申し出たのです。お釈迦様もきっとそうされただろう、彼女の慈悲は仏の慈悲となり、…

生起消滅が余りに早く、分割して見ることができず、持続する一つの塊としてしか認識できないことを、Santati Ghana(相続密集)といいます。先ず塊の無常・苦・無我を随念し、やがて相続密集なる無明を砕破し、究竟法で三相を随観・看破して預流果に至る。そ…

実況中継、即ちメタ認知の視点を持つこと自体は、気づきの瞑想でも、ヴィパッサナー瞑想でもありませんが、私達の日常を改善する上で大きな効果が期待できます。例えば自らの誓願の管理人を身の外に置いて、自分自身の身口意を制御していけば、正道を踏み外…

私達人間には本来、身体維持の為の食も、雨風をしのぐ家も、肌を覆う衣服も、病を治す薬も、ましてや冷房も暖房も、保証されていません。野生の生物を見れば分かるように、生きることは過酷です。生は苦の上に成り立っているのです。私は生きることを、その…

相手を打ち負かすことや、人より優位な立場を勝ち取ることではなく、過去の自分を越えていくことだけを目標に据えましょう。私達は輪廻をさまよう旅人です。三界に存在の痕跡をいちいち残す必要はありません。絶え間なき自己超越の蓄積こそが、いつか私達に…

世間的成功による名誉や権力、財や影響力は、毎年の財務諸表のようにすぐに色あせ、枯れた藁草のように無常です。一方、経典に登場する仏弟子達の、誠の信、精進、離欲、智慧、忍耐、慈悲は、時代を超えて私達の菩提心を喚起し、清らかな涙を誘います。人生…

不快を感受する時、明らかに外因に依るように見えても、実は自らの過去の不善業の結実に過ぎず、真の因は内にあると知らねばなりません。内因を外因と取り違える時、それは悪意(Vyāpāda)と呼ばれます。悪意の故に他を攻撃せんとすれば、害意(Vihiṃsa)と…

偉大な仕事を為した人でも、死して棺に横たわれば、無常、苦、無我に立ち向かい、遂に敗北した姿が涙を誘います。この世では阿羅漢の死だけが偉大なる勝利です。彼は無常と苦の輪廻から脱出し、諸天善神の祝福の中で涅槃に入るのです。弟子は残された自分に…

私達は経験の蓄積により、慣れ(日常化する)たり、馴れ(距離が縮まる)たり、狎れ(傲慢となって仁・義・礼を見失う)たりします。これらを明確に分別して下さい。狎れる事はとても危険です。祝福や恩恵、人の優しさや真心が、当たり前に思え、不満足の種…

善意に満ちた心の暖かさが根底で支えている限りにおいて、世俗的な理は是認されるでしょう。正見が根底で支えている限りにおいて、善意や心の暖かさは、汚染なき清らかさとなるでしょう。禅定が根底で支えている限りにおいて、観行は如実智見への道となるで…

精進(Vīriya)とは、忍耐や努力ではなく、内からわき上がる圧倒的なエネルギーです。ふつう七割の力で働き続ければ人は疲労困憊しますが、精進を陽転させれば、何倍もの力が内奥からほとばしりでて、甘美なエクスタシーの中で、幾らでも働き続ける事ができ…

「やってみたけど出来なかった?だったら百回やってみろ!千回、いや百万回でもやってみろ!」「三年やっても禅定に入れない?だったら十年続けなさい、いや、二十年、三十年続けなさい。それで出来れば大成功じゃないか!」瞑想指導の時はいつも、心の底で…

「学問の大禁忌(だいきんき)は作輟(さくてつ)なり」吉田松陰の言葉です。「学びを修める際、最もよくないのは、やったりやらなかったりすることだ」という意味になります。然り!修行の推進力は正に継続から生まれます。やると決めたら如何に苦しくても…

聞法は安般念の「触の感受」の如く、修行者をダンマにつなぎ止めてくれます。故に法の継承である法話には、万難を排して参加すること。法の直接の伝授は一期一会であり、機を逸すれば二度と同じダンマを聞く事はできません。私は永久にみなさんの近くに居る…

仏教では月の運行によって時を計ります。新月、満月、上弦/下弦の半月は布薩と呼ばれ、かつて人々は釈尊の御許に集い共に祈りを捧げました。現代社会ではイエス生誕の年と天地創造の七日間を基軸としたグレゴリオ暦を使わざるを得ませんが、私個人は月の運行…

有情の寿命は如何に決まるのでしょうか?原則としてその種の最長寿命の範囲内で、前世の令生業により概ねの寿命が決まります。その上で善心を多く生起させれば寿命は伸び、不善心が多ければ短くなります。生きる環境によっても寿命は変化しますし、食生活は…

概念上の視点に過ぎない「私」を実体ある当体と見誤り、「私」の周りに境界線を引いて、その内と外を比較すること。これらは仏教における最もチャレンジングな煩悩、「謬見」と「慢」です。貪りや怒りを根絶する前に、私達は先ず「私」に関するこれらの不善…

怒りや嫉妬を相手にぶつける時、反省や思いやりを期待してはなりません。表面的にはどうあれ、不快感に基づく反応を覚悟しなくてはなりません。「怒りの抗議」は事態を改善しません。むしろ複雑にこじらせるのです。故に私達は怒りの刺激を貪らないよう、い…

瞑想における後行の重要性は、言葉で言い尽くすことができません。一時的であれ欲界から遠離した心の連続体は善意に満ちており、羽の様に軽く柔軟、微細で壊れやすく、善性が完全に心奥に沈澱吸収される時間を必要としています。故に瞑想後はすぐに立たず、…

来る日も来る日も、決めたことをやり続け、思考を止めて自らの身心を調教していく。随念であれ、随観であれ、瞑想であれ、決めた時間に、決めた通りに、やり続けるのが修行の原則です。傳修院参学者は安全網を与えられていますが、私自身は救済策なしに、ず…

想像を絶するような業果が結実するように見える時があります。絶体絶命のピンチが突然、我が身に降りかかってきた!しかし詳しく観察すれば、どれ程激烈な業果であれ、業果は静かに安らかに結実します。その一瞬を見逃さず、智慧で反応すれば、私達は人生を…

朝、一切れの食バンをしまい忘れると、夜には乾いて固くなってしまいます。しかしもとの袋に入れれば、翌日にはふかふかの食パンに戻ります。孤独な修行には不善思考が頻繁に生起し、心は柔軟さや瑞々しさを失います。しかし道場に趣き善友と交われば、菩提…

誰かのようになりたいのでもなく、自己実現したいのでもなく、そんな視点を持つことを余儀なくさせる、輪廻から脱出したいのです。極められなくてもいい、最善を尽くすのです。仏法僧に頼るのではなく、固く信じるのです。一瞬一瞬、仏法僧を信じ最善を尽く…

アビダンマ、中観、密教を知らずに、セイロン大寺派の伝統にそって清浄道論を修行すれば、ダンマの微妙なニュアンスがごっそりと抜け落ちてしまっているのを痛感するでしょう。日本に生まれ育ち、日本の伝統仏教を身につけていることが、いかに稀で幸運なこ…

失意の時、決して絶望してはいけません。幸福の絶頂にある時、決して有頂天になってはいけません。奈落の底にあっても、必ず希望は見出せます。僥倖に浴している時は、逆に必ず足をすくわれます。世界は恐れる程には悪くないし、期待する程よくはありません…

「施すことにより我が身を興す。」この高貴な理法が信じられなければ、手放すことはできません。保険が、プランBが、という前に、先ず退路を断って命を賭けてみるのです。捨て身の人間ほど強いものはありません。お釈迦様の直弟子達は皆、退路を断ち、命を賭…

あなたの意志によって、お釈迦様を信じているのではありません。お釈迦様が今もそこにおられるから、心がお釈迦様の御心の中でとろけているのです。波羅蜜がそうさせているのです。太陽の如きお釈迦様の光を受けて、月であるあなたが明るく輝くのです。この…

学びの秘訣。先ず「あなたには時間が十分にある」ことを受け入れること。次に既得の知識に関する慢心を捨て去ること。最後に未得の知識が流入することへの心理的抵抗を克服すること。そうすれば乾いたスポンジが水を吸収するように、新しいダンマがあなたの…

塗りものの世界では、厚塗りはせず、薄く塗り、乾かして再び薄く塗り、幾層にも重ね塗って、鏡のように美しく強い表面を作り上げます。この反復と、積み重ねられた結果の関係を、仏教では修習縁と呼びます。修行者は日々修行を行う際に、自ら修習縁を実践し…