禅定に興味がある方は、
止行の修習から始めればいいでしょう。
Vipassanāに興味があるなら、
観行の修習から始めればいい。
釈尊の教えに惹かれるなら、
アビダンマから始めましょう。
どの道から歩き始めてもいいのです。
いずれSaddhāの大道に至り、発菩提し、
そこから八正道の修行が始まります。

思考はとてもトリッキーです。
どのように善なる心を持つか、
どんな善行を為すか、
如何に善なる言葉を語るかについて、
貪りの心で思考したりします。
その思考はもちろん、
善思考を装った不善思考です。
思考しながら心の中をのぞき込めば、
それが本当は善か不善か、
簡単に知ることができます。

アビダンマを学べば智慧を育てられるでしょうか?
いいえ。アビダンマは智慧のフレームですが、
智慧そのものではありません。
渇愛と執着を離れ人に分かち与えること、そして、
他の生命を傷つけず善行を為すこと。
この二つの実践によって初めて、心が清浄となり、
清浄な心に智慧が生ずるのです。

無常・苦・無我の三相の随念は、
禅定修行にとって欠かすことのできない、
大切な要素です。
三相随念は心を強力にダンマへ向かわせ、
今この瞬間に生起している禅定の、
無常性・苦性・無我性をも、
しみじみと実感させてくれます。
これが如何に禅定を高め深めてくれることか、
正に想像を絶します。

極く微細であれ、怒りや不快が生起したら、
修行の素晴らしいチャンスだと捉えて下さい。
背後に、思わぬ形で、
渇愛や強力な執着が見つかるはずです。
それらのLobhaが直接因となり、
あなたの心底に蓄積されたDosaが、
噴出してくるのです。
Dosaの感受→背後のLobha探し。
これを習慣化して下さい。

今この瞬間と共にあることを決して忘れぬこと。
今この瞬間に感受している対象から決して離れぬこと。
それがSati(正念)です。
正念が生起している心を経験すればするほど、
正念なき心を、わら草のように感じることでしょう。
正念の味わいを知らぬ人生は、
膨大な時間と想念の浪費に他なりません。

瞑想について、正しい理解が足りないと、
瞑想の入り口に立つことができません。
正しい理解とは何か?
瞑想に何も求めず、手放しでただ座る、
ということです。
これを怠ると、
瞑想やその結果に対する
微細な執着が心に生じてしまい、
その故に私達は、
瞑想の入り口に立つことができなくなるのです。

仏教修行について、
知っておくべき二つの真理があります。

1)今この瞬間は常にここにあり、
アクセスできなくなる事は絶対にありません。
私達の不善心だけがそれを見失うのです。

2)お釈迦様が説かれたダンマは、
すべて実際に経験し実証することができます。
そこに如何なる例外もありません。

常にSati(正念)を以て、
今この瞬間の観察者でいること。
妥協の余地はありません。
昨日のTVの話でいえば、
正念が生起している限り、
刻々と変化する色彩と音声から、
どんな概念や意味も、
絡み取ることはないでしょう。
色彩の所縁を色彩の所縁と知る、とは、
正にその様な状態を示す言葉です。

TVから感受するのは、
時々刻々変化する様々な色彩と、
耳から聞こえる音声だけです。
それを識別すれば、
色彩と音の生滅が延々と続く、
退屈な時間に過ぎない事が分かります。
色彩と音声から意味を絡め取り、
アタマで物語を構築することに、
何の意味があるでしょう?
そこに気づきはありません。

サイズの限界を克服して名色を識別し、
速度の限界を克服して生起消滅を観れば、
あなたは三相を看破するでしょう。
そして煩悩が根絶されます。
身口意による業の形成は止まり、
苦の原因は完全に消滅します。
それが「滅諦」です。
あなたは般涅槃を待たずに寂滅を得て、
涅槃の甘露を味わうのです。

未だ究竟法において、
Nāma(名)とRūpa(色)を識別できず、
様々な対象に対するTaṇhāを、
抑制できないうちは、
一切を空とは見ずに、
持続的に存在する現象であるかの様に扱いながら、
名色の各相を随念し、
禅定によって渇愛を抑制していきます。
その上で「一切は空」との随念に進んでいきます。

一切の現象は実在する、或いは実在しない、という見解は、
直感的誤謬に基づく心の傲慢な推論です。
五蘊・十二処・十八界は、
外界と内面の境界線である五つの浄色(Pasāda)における、
「知覚する主体」と「知覚される対象」との接触に過ぎません。
私達は実際には、それ以上何も知り得ないのです。

信がなくても気づきだけで悟りの光が得られると、
思っていませんか?
悟りはそのようには訪れません。
私達は無明の暗闇を茜色に染めるまで、
涅槃を求めて泣いて泣いて、
叫んで叫び続けなくてはなりません。
そうやって初めて、涅槃というまばゆい太陽が昇り、
私達を明るく照らしてくれるのです。

仏教の信は確証ある信?
何たる胡散臭さ!
釈尊はそんな事はお説きになっていません。
これを語った古えの碩学は、信を知らなかったのです。
泣き叫びながら三宝を求めずして、
如何に輪廻を厭うのですか?
輪廻を厭わずして、
如何に涅槃に到るのですか?
燃え上がる信が無ければ何も始まりません。