私達は無明に眼を塞がれ、
無常・苦・無我・不浄を、
常住・常楽・実有・浄美と見誤り、
悪業を形成し、煩悩を蓄積し、
三界をさまよい続けます。
これは無明に汚染されている私達は本来清浄で、
無明を根絶すれば解脱できることを意味します。
これが自性清浄ということです。
これは大変な福音です。

本当の安心はどこにもありません。
実相世界は一瞬一瞬消え去っていて、
何も維持できません。
安全な避難所は何処にもなく、
責任をとるべき誰もいません。
「私」という現象の連続体は、
濁流の如き貪瞋痴に眼を覆われ、
摑む何かを求めつつ、
得られぬまま、
やがてここから消え去っていくのです。

鋭い気づきに伴って深い智慧が生起します。
その正念正智が心底に強く確立されると、
世の無常が明瞭に了知され、離貪に心が傾くのです。
その時、止と観の修行への燃え上がる情熱が生まれます。
その想いは金剛・不動であり、
何ものにも妨害されることはありません。
この心がEkatta「一性」です。

神聖さを守護する為、
敢えて厳格な様式をルール化する場合があります。
例えば傳修会で内陣を荘厳する際は、
マスクと手袋を着用し、
二十四縁起略説または
浄三業・三部・被甲で三業を清めた後、
本尊、五具足、六器、華鬘、供物を整えます。
撤去時もこれに準じ、
最後に功徳を三宝に廻向します。

適量の睡眠の後、早朝に目覚め、
食物は午前に適量を摂れとされています。
その上で姿勢を調え、息を調え、心を調える。
以上の五調和が得られれば、
三昧を得るのは困難ではないとも言われます。
容易か否かは別として、
先ず基本条件を絶対に崩さず修してみる、
それが修行の正しい心構えでしょう。

ダンマの勉強が進まない、
梵行が進まない、瞑想が進まない、
万人に共通の悩みです。
結果を得たいなら、投資をすればよいのです。
菩提心が燃え上がる至高の時間を投資すれば、
誰でも素晴らしい善果を得る事ができます。
若い人達も熟年の方々も、
三宝から想像以上の祝福がもたらされるでしょう。

ダンマを深く随観し修習していくと、
ミャンマーの僧院に本当の仏教があるとの見解は誤りであると、
次第に知ることになります。
十代の頃愛読していた秘蔵記を読み返し、
そこに道品法の霊妙な秘伝が記されているのを知りました。
日本に生まれ、日本で仏縁を得たことに、
感謝の涙があふれてきます。

苗木には囲いが必要です。
真摯な修行者は、無防備に所縁を受け入れてはなりません。
マスメディアはあなたの目の前に、
貪、慢、瞋、嫉の有害な刺激をちらつかせて、
利益を得ています。
その仕組みを理解すれば、
心を汚染するTVやネット、紙媒体に、
大切な時間を捧げる気にはならないでしょう。

肉体的痛みと精神的不快という世間苦の二辺を超えて、
存在に内在する行苦を如何に実感することができるか、
そしてその実感から如何に仏法僧に対する信を紡ぎ出せるか、
仏教への適性が問われるところです。
その発菩提の瞬間に、
彼は輪廻の輪から飛び出して、
解脱に至る八正道を歩み始めるのです。

ゲームのルールを覚え、
戦略やトリックを修得し、
何時間もプレイに熱中する。
おそらくそこには、
様々な喜びや興奮があるのでしょう。
しかしゲームに時間を費やすことに、
いかなる意味も見出せない人達もいます。
仏教の真理に近づいた人は、
輪廻する生存に対して、
正にその様に感じるのです。

日本仏教は葬式仏教と揶揄されますが、
私は素晴らしい伝統だと思います。
涅槃経に見られる釈尊を弔った様式が、
今も日本風に継承されており、
そこには故人への尊敬と追善の思いが溢れています。
一度様式を破壊すれば元には戻りません。
素晴らしい伝統を大切に守るのもまた仏教徒の使命でしょう。

壊れて動かなくなった時計でも、
修理すれば再び時を刻み始めます。
お釈迦様の本意が誤認され、
正しく修習されずに放置されたダンマであっても、
如実に智見する眼のある沙門により、
そこに魂が注入されれば、
再び涅槃への門は開くでしょう。
まだ三蔵がそこにあることが、
本当に有り難いのです。

言葉や行動で人に危害を加えようとし、
ついに目的を遂げたとしたら、
あなたは取り返しのつかない事をしたことになります。
その業の報いから逃れるすべはありません。
社会的にいかなる理由があるにせよ、
仏教的にはあなたにいかなる正当性もありません。
ですから絶対に人を傷つけてはいけません。

夢や希望があるから生きていける・・
小さな幸せに生きる喜びを見いだす・・
生存は渇愛を因として廻っています。
その渇愛が苦の生起因であると集諦は教えます。
生存は苦であると知りつつ輪廻を止められぬ私達は、
まるで麻薬中毒者の様に「解決なき破滅への道」を
ひた走っているとも言えるのです。

一つの言葉に託す意味と範囲、
行間の佇まいや情感は各人で異なるが故に、
言葉は論理的な意思疎通には向きません。
釈尊は法や慈悲を伝える補助手段としてだけ言葉を語り、
後は聖黙を保てと説かれました。
言葉の限界を知り、
詭弁で人を傷つけぬよう念じつつ、
正語の完成に全力を尽くしましょう。