多くの凡夫は五つの障害を持っています。
修行に耐える心身が調わぬ生障、
煩悩が抑制できぬ煩悩障、
過去世からの不善業果による業障、
正師に会えず正法に縁を持てぬ法障、
正法を聴いても八正道の修習に縁づかぬ所知障。
もし八正道修習に縁を得たなら、
あなたは明らかに得難き仏縁をお持ちです。

地上に残る仏像の多くは
既に空家かもしれませんが、
かつては天上の光をプリズムの様に
映し出していた筈です。
いま私達にはブッダニミッタがあります。
燦々と輝く仏の大光明が放射されています。
天上の霊妙なる光の柱が輪廻の闇を突き射し、
涅槃の門がまだ閉じていない事を示してくれています。

お釈迦様のお悟りは、
今も太陽の如く燦然と輝いています。
しかし仏舎利は凡夫の貪欲で
既に汚されてしまいました。
空海菩提心の霊妙は、
今も摩尼宝珠の如し。
しかし密教の霊山は、
ラクタの山と化しました。
永遠に美しきは出世間智と、
そこに至らんとする
真摯な菩提心だけだと実感します。

過去世の名色の識別が可能になると、
貪瞋痴による一切の過去の行為と果実は、
成功、失敗を問わず、
色あせた嘔吐すべき暗い墓標であることが
わかります。
そこにあるのは「膨大なCetanāの浪費」です。
渇愛があれば好ましき過去は哀愁を生じますが、
なければワラ草です。
これが輪廻の実相です。

十代の頃、日本霊能者大全という
とても胡散臭い本を持っていました。
未来と過去の霊視、
高次元の存在との交流、
霊言、非接触治療、
エスの化身、
涅槃証悟、禅定証悟などを自認する、
500人を超す霊能者の写真が掲載された
その本のおかげで、以後私は
霊能力話に一切ひっかからなくなりました。

愛する人を慈しみ優しくいたわることと、
その人を傷つけんが為に
自己の目的を見失うのは別のことです。
苦の消滅に至る解脱への誓願は、
日々随念され、強固に心に
確立されねばなりません。
最後にあなたを救うのは
愛する人ではなく、
三宝への菩提心の誠であることを
決して忘れてはなりません。

一度回転を止めてしまうと、
再び車輪を動かすには
大きな力が必要です。
ローギアで最大の力を車軸に与えても、
車輪はゴロンと動くだけです。
何事も一度止めてしまうと、
再始動には大変な努力が必要となるので、
結局進み続けたほうが楽なのです。
辛く思えても、
継続する努力は常に最小限です。

十二縁起の基本的随念では、
A)無明→渇愛→取→行(有業)
B)識→名色→六処→触→受
と二分し、
A)からB)が生ずる事を観察していきます。
A)は即ち四聖諦の集諦であり、
B)は苦諦です。
過去のA)から現在のB)が生じ、
現在のA)から未来のB)が生ずる。
この無限連鎖(=生老死)を観察していくのです。

もう人間界はうんざりだ、
早く六欲天に転生したい!
もしそう願うなら、
今この場で天使になる事を決意し、
あなたの周りのすべての人達に対して、
天使のように振る舞うことから始めましょう。
自分の長所や優位性は謙虚さで覆い隠し、
子供のように無垢で純粋な善意だけを
隣人に捧げていくのです。

仏教をオンラインで学ぶのは、
非常時に糸を切らぬ為の一時的方便です。
特に対面ではなく片側通行の学びでは真髄は掴み難く、
お釈迦様の説法を直接聞くのと、
2500年後にお経を本で読む程の違いがあります。
学ぶ側にすさまじい程の菩提心がなければ、
そのギャップを容易に埋めることはできません。

もしその人にとって、あなたが喜びの源泉であり、
生きる力の源泉なら、
きっとあなたと共に生きたいと願うでしょう。
もしあなたが自分の怒りや嫉妬や不安を、
その人に無作法にぶちまけ続けるなら、
その人は必ずあなたから離れていくでしょう。
自分の汚物で大切な人達を
蹴散らしてはいけません。

「私」という不善な視点は、
いくら哲学的に思惟しても
決して弱まりません。
修行者はダンマをしっかり勉強し、
我を忘れてその実践に身を捧げればよい。
するとあれほど頑固で
決して譲ることのなかった我身見も、
徐々に弱まっていきます。
実践せずに能書きだけ語っていても、
成長はありません。

五蘊の連続体には、
聖なる目標はありません。
永遠の大生命に至るわけでもありません。
絶対存在の必須なパーツでも、
不二の本質でもありません。
造物主たる神の作品でもありません。
五蘊の連続体は無明をその種とし、
渇愛と、渇愛を因とする行為により、
あてどなく流れ続けているだけなのです。

お釈迦様の説かれる諸悪莫作(しょあくまくさ)、
諸々の悪を作すな、の「悪」とは、
行為や言葉や思いにおいて、
自他を害することを意味します。
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、
多くの善を行え、の「善」とは、
自他を害さず、
法・財・無財の布施を為すの意です。
戒と施が修行の基本である所以です。

通俗的物語の展開は、
1.同化させ、2.期待させ、
3.Dosaで追い詰めて、
4.Lobhaの喜びで幕。
というものです。
4.を「悲しみのうちに幕」に入れ替えても、
悲劇は作れません。
ギリシャ悲劇のように
「受苦でSaṅkhāra Dukkhaを悟った心の
悲劇的高揚」で幕とすれば、
真に価値ある悲劇が生まれます。