いくら瞑想をしたからといって、
彼岸に到れるわけではありません。
これ以上修行を空回りさせないために、
私達はまず菩提心波羅蜜で、
瞑想に命を与えなくてはなりません。
日々菩提心を養い、
清浄な福徳を積むことを心がける。
そうすれば自然に瞑想は完成します。
悟りは自然に私達に訪れます。

他人を攻撃したり、嫉妬したり、
勧善懲悪の刺激を貪ったり、
要するに瞋(Dosa)に心が席巻された時、
誰も私達を愛してくれない事に気づきましょう。
Dosaの実践は、灼熱の鉄バットで相手を殴る行為に喩えられます。
相手に一撃を加えられるかは分かりませんが、
私達は確実に大やけどをするのです。

私達はすべての人々を師と見做すことで、
たいへん多くを学ぶことができます。
ある人に美点や優れた点を見つけたら、
自ら真似て同じ徳を身につけるべく精進します。
別の人に不適切な点を見たら自らを省み、
同様な過失を犯さぬよう十分に注意を払います。
正に他の有情を所縁とした四正勤法です。

もし私がそのダンマを知っているのなら、
「私は知っている」と認識します。
もし私がそのダンマを知らないのなら、
「私は知らない」と認識します。
その両方があって知識となるのです。
知っていることだけを大声で語り、
知らないことを知らないと語らないでいるなら、
智慧ある人とはいえません。

心を不善業道に導くような、
対象を見てはいけません。
音声を聞いてはいけません。
言葉を発してはいけません。
行為を為してはいけません。
「見ざる、言わざる、聞きかざる」を、
外からのインプットである五門と、
アウトプットである身口意の三業門を、
しっかり防護する為の戒めと捉えましょう。

社会の評価はローカ・ダンマの領域です。
できるだけのことをしたら、あとは手放してしまいましょう。
世間の人々は誰も本当にはあなたの事を知らないのです。
あなたが為すべきことは、
自分にまだ不足している資質や未完成の能力を、
完成させることです。
それが智慧ある人の時間の使い方です。

安般念修行者にとって、
入息と出息はお釈迦様の御心へと通ずる扉です。
如何なる業果が訪れようと、
呼吸を観さえすれば、
いつもと同じ自分の入出息がそこにあります。
お釈迦様の御心がそこにあります。
何を気に病み、何を恐れる必要があるでしょうか?
呼吸はどんな時でもあなたと共にあります。

「他人の目にどう映るか」という視点を、
完全に取り去ることができたら、
どんなにいいでしょう。
「いかに今この瞬間を善なる心で生きるか」
に徹することができたら、
どんなに素晴らしいでしょう。
その時私達は、
他人に見せるための人生を脱して、
自らの為に本当に生きる事を始めるのです。

業果の怖さを知る仏教者は、
世俗を生きるには断崖絶壁の道を旅する用心深さが必要だと痛感しています。
一瞬の怒りの爆発が功徳の林を焼き尽くし、
自ら歩く道をも谷底に崩落させてしまうのです。
怒りや嫉妬の激情を、
行動や言葉で暴発させる刺激は抗し難く、
一度とらわれると、すべてを失います。

「私」という誤った見解がなければ、
渇愛の対象に対する、
「私のもの」という感覚も生じません。
もし「私のもの」という思いが心に生起するなら、
「私」という謬見がそこに存在しているのです。
「私」を根絶しても、渇愛は残りますが、
顛倒見から生ずる「私のもの!」という執着はなくなります。

無常・苦・無我の対象を、
常住・常楽・実体であると見誤って認識する心には、
愚かな論理思考が生じ有毒な煩悩が生起します。
それを避ける事はできません。
対象を無常・苦・無我であるとあるがままに了知する心には、
如何なる戯論も生じません。
それは中道であり空であり、涅槃証悟への扉です。

他の原因や条件に依存せず、
自性のみによって生起する現象はありません。
他に原因があり、生起の為の条件に依存して、ある現象が生じる時、
その現象は、それ自体に内在する自性によって生起したのではありません。
これが無我であり、空であるという意味です。
賢者は一切をそのように了知します。

遙かなゴールだけを見つめ、
ぶれる事なく、
一本道を歩き続ける人でいて下さい。
様々な卑近な雑事の為に寄り道をしたり、
歩くのをやめることのないように。
過去の人生ではいつも、
路傍の花を愛でて寄り道をしてきたのです。
これを最後の生存にしたいなら、
真っ直ぐ歩き続けなくてはなりません。

ある種のゴールは、
成就する直前に絶体絶命のピンチが訪れます。
不測の事態が「これでもか」と次々に起こっても、
悲観的になってはいけません。
成就が近いというサインかも知れません。
世間では、ちょうどオセロゲームのように、
最後の最後にすべての石が裏返って勝利を得る事がよくあります。

傳修院で無礙解道・業論の伝法を始めました。

十二のアルゴリズムで業を識別するこの小論に沿って、

業と業果の関係を考察すると、

行苦の逃げ場の無さ、諸悪莫作・衆善奉行の本義が、

圧倒的説得力をもって心を席巻します。

お釈迦様から舎利弗長老への法流。

これが本当の仏教だ!と心が震えます。