無垢なるカンマの形成:
重要な事や本当にやりたい事を為す時は、
先ず最初に短くてよいからĀnāpānassatiを行い、
できる限り自分を幸せにすること。
できる限り高揚感を得ること。
そして三宝の至福とご加護と一体となってから
やるべき事を為すべし。

不善な行為を離れよ、と教えるSīlaは、
道徳でも宗教的ドグマでもありません。
Sīlaは自らの心の平安を護るのです。
小さな不正、一つの嘘によって
心は曇り、鏡のような水面にさざ波が走る。
空気はよどみ、太陽も雲間に隠れてしまう。
だから初心の修行者は
どうしてもSīlaの守護が必要になります。

聖黙:
善心が生起するには静寂という土壌が必要です。
思考を止め言語活動を空しくして
静寂を得てください。
言語作用自体が善心に変化することはありません。
確かに善心の前後に生ずる不善心は
無貪・無瞋・無痴を標榜しはしますが、
言語作用が働いている限り
心は魔羅の領域に属しているのです。

清貧とは自ら選んだ質素な生活です。
善なる心で誇り高く選び取った質素な生活を意味します。
慈経には、理想的な修行者は
「最も質素な暮らしをしているから煩瑣な雑事も少ない」とあります。
なんであれ自分に与えられたものに満足して更に求めない心が、お釈迦様のサンガにはよく似合います。

中道、四聖諦、八正道、十二縁起、二十四縁起、
お釈迦様は様々の真理を説かれました。
それらは非常に短い単純な言葉で説かれているので、
その真髄を読み取れない人は、
単純だとか退屈だとか迷信だとかと見誤り、
そこにくみ尽くせぬ真理の井戸があることを見逃してしまいがちです。
お釈迦様は日常的で何の変哲も無い言葉を使いつつも、
くんでもくんでもくみ尽くせぬ最高の深遠さをそこに込められました。
修行者は自身の深まりとともに、
これらの真理に対する深い愛を育んでいくのです。

「取から有が生ずる(Upādāna Paccaya Bhava)」を
詳細に考察すると、
善不善にかかわらず一切の行為は執着より生ずる、
という結論に至ります。
今この瞬間は受と愛の間にあります。
愛⇒取⇒有は、今この瞬間の次に来たるべき近未来
が有であることを如実に示しています。
(アビダンマ講座#472より)

仏教修行が他の宗教と異なる点は、
仏教は道であり、
他の宗教に見られるような家ではない、
というところかも知れません。
家としての宗教とは、
とにかくその家の中に入っていれば、
激しい嵐から避難できるという主張です。
一方仏教は道であり、
三宝の守護を頂きながら
自分の力で歩いて行くのです。

夜明け前と日没前の30分は聖なる時間といわれています。
この時間帯は意識が高くなりやすく
修行の結果を出しやすいとされます。
夜明けや日没を体感できる場所があればベストですが
そうでなくてもその時間に合わせて
何か一つ精神的な事に捧げる事を習慣化すれば、
将来大きな果実を結ぶでしょう。

例えば禅定を得るなど、
仏教修行の大いなる一里塚に至る為に
何か特別な秘法があるわけではありません。
地味で単純な日々の修習を根気よく継続すること、
その積み重ねがあなたを大いなる目標に導くのです。
言い換えれば、
あなたが仏教修行を好きでたまらなくなることが
最短の道というわけです。

インターネットは巨大な百科事典のようなもので、
そこで得られるのは玉石混淆の情報に過ぎません。
もし私達が何かを本当に学びたいと願うのなら、
礼節を尽くして師に教えを乞わねばなりません。
そうすることによって初めて、
必要十分な知識が師から弟子へと流れるのです。

瞑想中、心の散逸を防ぐため、
アンカーを用いることがあります。
メディテーション・アンカーとは、
様々な種類の瞑想を、
すべてその上に構築するところの
「瞑想修行の土台」です。
入息・出息やBudhoが知られていますが、
最上のアンカーはなんと言っても
皆さんにお授けしたBuddha Nimittaです。

佛陀の教えは百千万劫の時を経ても
遭遇することは難しいと言われます。
そして永い時を経てようやく仏縁を得ても
自らの無知と傲慢さによって
簡単に手放してしまう。
しかしその為にこそ僧伽があるのです。
たとえ長く参加できなかった後でも
僧伽はあなたを大好きな親友として抱きしめるでしょう。

如実知見とは何か?
眼の前の現象を
いかなるバイアスもなく、
いかなる善悪も、好き嫌いもなく、
これはこのように観るべきだという偏った先入見もなく、
いかなる分類も、いかなる推論もなしに
あるがままに観察すること。
そして何であれその現象が私達に語りかけるものを
ありのまま受容すること。

一定期間の僧院での修行は
私達に多くの学びをもたらします。
例えば日々の日課
起床・就寝・着替え・瞑想・洗濯・食事等の
諸事の順番、内容、時間が定められ、
一切の思考を止めて聖黙を保ちつつ
マインドフルに勤めますから、
Dosaをほぼ生起させずに
日々を過ごす事ができるようになるのです。