2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧

身心の連続体は単なる現象に過ぎません。しかし人は自分を基点に身心を見てしまう。身心を自分と見、自分は身心を所有すると見、自分の中に身心を見、身心の中に自分を見て、自分が存在するという誤解を確立させてしまいます。そして身心が老い、遂に消滅す…

「我が物と思うものを貪る人は、憂いと悲嘆と物惜しみを捨てることがない」(経集)本来この世に「自分の物」など何もありません。故に物ではなく「我が物」と思う心だけを捨てればよいのです。所有欲から自由になった人は無所有を悲しむことなく、失う物が…

ダンマは見たかどうかがすべてです。しみじみと感得したかどうかがすべてです。ダンマは思考と言葉を越えており、それについて議論する事は不毛です。むしろ「ダンマは思考と言葉以外の一切」としたほうが、真実に近いでしょう。音楽は感じるもの、旅行は行…

人生の価値は死の瞬間で決まります。いかに悲惨な人生に見えても諦める必要はないし、栄華を極めた人生でも油断はできません。臨終の時、まるでオセロゲームのように、全部が白に裏返ったり、黒に裏返ったりするのです。浮世の栄枯盛衰は陽炎の如し。真の成…

なぜ仏教に自己放棄が必要なのか?我見を抑制する基盤だからです。我見は仏教で最初に根絶すべき煩悩ですが、多くの仏教徒は手も足も出せません。それは信なき自行では「私」を抑制できないからに他なりません。涅槃への第一ステップは「私」の放棄です。こ…

慈は「無瞋(むじん)」であり、瞋のカウンターダンマです。慈を心に育むには、先ず瞋を叩き出さねばなりません。怒り、嫉妬、吝嗇、悔恨、不安、悲泣、恐怖を、理屈ではなく、目をぎゅっと瞑り、歯を食い縛り、耳を引張って、徹底的に追い出すのです。そのよ…

大義あり、大志あり、約束を守り、決して諦めず、口が堅く、義理堅く、悪口を語らず、裏切らず、人に優しく、謙虚で慢心なき者。そんな人はどんな道に進もうが、必ず人に尊敬され、目的を成就することができます。仏教修行者もまたしかり。私達はそういう求…

結界とは不浄な世界に構築された清浄空間です。不善心を生起させず、不浄な有情も侵入させず、清浄な善意で互いに修行に邁進する場所です。結界内で人は自らを律し、三宝の祝福と加護を祈ります。僧院や戒壇や瞑想会場と同様に、あなたの瞑想シュラインも、…

意門に生起する欲界心の殆どは戯論であるが故に、一切の思考を止めて、入出息あるいは三十二の身体の部位に、心を留め置くことが最善の選択です。生きることは貪ることでも、怒りの刺激を楽しむことでもなく、この藁草のように味気ない俗世にあって、法の至…

いかに精密な運命学でも、完全な未来予測はできません。未来は業果や熱果のような確定的流れに乗りつつ、善心や不善心に基づく個々の作意によって、繰り広げられていくものだからです。因果の法を予見する運命学を認めつつも、未来を決定論で捉えることはで…

ランを丈夫に育てるには、土が乾き、根が水を求めて伸びてくるまで、水やりを控えろといいます。木を大きく育てるには幹を太くする必要があり、毎年の枝下ろしが欠かせません。あえて逆境に身を置くことで、益々強くなっていく生き方があります。無菌室で育…

肉体という色蘊の連続体は、無始無終の心の連続体の一時的な乗り物に過ぎませんが、色と心は相互依存の関係にあり、健全な肉体が健全な心の維持に不可欠なことは、疑う余地がありません。心臓の不調は不安定な心基をもたらし、意門に生起する心に支障をきた…

人生は一度きりと見誤り、生涯の計画を欲や貪りで組み立てると、必ずどこかで足をすくわれます。貪れば貪るほど最後の局面で哀愁を味わいます。人生は無始無終の輪廻の一局面に過ぎません。今生を受容と知足充実で組み立てれば、喩え逆境にあっても悲泣はな…

将来の自我の肥大化を避ける為に、小さい頃からしっかり教育しておくべきことが三つあります。非を認め自分から素直に謝れるようになること。相手の優れている点を認め、素直に教えを請うことができること。慢を捨ててチームに自己同化し、全員で力を合わせ…

Jarā(老)とは時間経過に沿って、現象が崩壊へと進む過程をいいます。成長も熟成も老衰も崩壊もすべてJarāです。老は一切の現象に本源的に内在しており、心構えや考え方でどうにかなるものではありません。智慧によって今この瞬間の現象に、心を如実に留め…

経験する不快な現象は、自らの不善業の結果です。生きている限り、理不尽な事象を避けることはできません。私達は正当な理由があると、それに頼んで反論や反撃の刺激に身を任せますが、仏教的にはそこに如何なる義もありません。理不尽な現象にも聖者の如く…

仏教を続けていけるかどうか、悟りの果実を掴めるかどうか。その鍵は実に単純です。恋する乙女のようであればいいのです。仏法僧に心が奪われ、一切の不善思考を断固拒絶し、いつも心にお釈迦様がいて、至福に心がとろけていれば、あなたは安全です。悟りの…

言葉で伝わるものは三割に過ぎません。残りの七割の真実は、眼や顔の表情、声のトーン、所作、そして行間から滲み出る真意によって感受されます。伝達内容が精妙であればある程、言葉を越えた「何か」の重要性が増していきます。真理を学ぶ時は常に、この法…

蒔かれた処で咲くのが先決です。私達は発芽した土壌で根を張る以外ないのです。先ずそこで花を咲かせ、次に花粉や種子を隣の庭へ拡散していけばよいのです。「歩」は自軍の尖兵として突進すれば、「と金」に成って最強となりますが、取られてしまえば、また…

内に輝く光明は修行のガイドです。禅定力のある修行者は、光明遍定や白遍定を常修し、光度の強化・安定化を図ります。この光の正体は心生色聚であり、心が禅定近くに住する時、内的に明るく輝くのです。光ある時、道は常に正道です。暗闇で瞑目しても明るく…

心を込めて善行を為そうとしても、その行為の成果に縛られていれば、心は不善に転じます。善行とは善行を為さんとする意志であって、行為の結果ではないことを、決して忘れないようにしましょう。仏教では結果は問いません。善行を為さんとする意志が、本当…

例えば蚊に苛立ち、怒りが生じ、殺戮の意図が生じる時、何も口にせず実際に殺さずとも、不善業が形成されます。その業は例えば蚊に刺されるといった業果を生じます。業果は今生に一度、次生に一度、それ以降の生に五度、実を結びます。この様に私達が経験す…

自らの不善に分析的意識を向けないこと。意外と知られていない仏教修行の重要なルールです。特に初心の修行者の心は不善の影響を受けやすく、注意が必要です。現在の対象からも、過去の記憶からも、貪り、執着、怒り、嫉妬、不安、悲泣、吝嗇、悔恨が、心に…

藁草の様な不善なる人生は永く、辛く、例えひととき栄えても、苦しみの中ではかなく夢が終わります。善なる生存は、信が心身を清らかさでツーッと満たし、菩提心が心に燃えたぎり、至福の涙にあふれる人生です。不善に心を向けることは、膨大な想念の浪費で…

過去の善/不善業の果は、一定の流れの中で結実していきます。ガンジス河に浮かんだ木の葉の様に、人生は大きな流れに乗って漂うのです。機が熟し、流れが味方する時には、自然に行動をとる運びとなりますから、私達は普段から知識を蓄積し、智慧を磨き、万全…

煩悩とは心奥に蓄積した汚濁で、条件次第で心の表面に、貪・瞋・痴として生起する潜在的傾向を持っています。普段は静まっていても、抑制不能の状況になると心の表面に噴出するのです。この煩悩が苦しみの原因です。八正道によって煩悩を根絶することが悟り…

不平不満を言う代わりに、今この瞬間に幸せを見出して下さい。与えられた環境の中に小さな喜びを見つけるのです。大きな目標を目指しているならなおのこと、満足できない現状を気楽に受け入れ、一歩一歩明るく楽しみつつ進んでいったほうがいいのです。その…

弟子の準備が整えば師は自ずと現れます。機が熟していなければ現れません。過去の福徳でたとえひとたび縁づいたとしても、永く留まることはできません。ゴールを正しく見据え、地道な努力を続けていけば、あなたに適した師は現れ、利を求めて脇見をしていれ…

五門で感受する一切は過去の業の果実です。好ましいものでも、好ましくないものでも、私達はそれらひとつひとつに、反応していかねばなりません。それが生きるということです。好悪に関わらず一切の現象に善心で反応することが、私達の修行です。生きること…