2022-03-01から1ヶ月間の記事一覧

一切は無我ですから、善を為して失敗する事もあるし、不善を為して成功する事もあります。私達は成功を貪り、失敗を恐れています。いま貪りと恐れを離れ、何も求めず、何も悔やまず、結果ではなく、その行為を為す思いこそがすべてであり、大切だという事を…

怒りが生じると私達は、自分は正しく、誰か他の人が悪いと考えます。しかしDosa生起の根本因は、私達自身の過去の不善行為にあります。怒っている心から目を背けずに、無理に抑えようとせずに、怒りを理解しようとしてください。よく観察するのです。逃げる…

私は真摯な修行者に仏相(Buddha Nimitta)を授けています。その仏相は彼等の菩提心を支え、彼等が仏道から逸れてしまいそうになるのを防ぎ、涅槃に至るまで彼等の無上の師となるでしょう。それは彼等だけの至宝です。しかし最初から至宝なのではなく、彼等…

思考によって随念の道筋を作り、観想によって場面を設定し、サティによって感動を得ます。随念は思考し理解するものではなく、観察し感動するものです。そこにサティがあれば思考はなく、そこに思考があればサティはありません。今この瞬間はサティによって…

五蓋の抑制が禅定への道です。対象に対して貪りもなく、怒りもない、中捨の心を保ってください。動揺もなく、怠惰な眠気もない心で、意識を対象に留めるのです。あるがままに息を吐き、あるがままに息を吸う。そうすればやがて五蓋は心の底に沈殿して、心の…

人生でたった一つの到達すべき目標を持つ事は力であり、二つの目標を持つ事は弱さです。人は一つの目標に向って一切を捧げる時、最も強くなれるのです。もしあなたが二つの目標を持っているなら、一つを成就する事によってもうひとつも自然と成就するような…

幸せを今生で楽しもうと思っても当てが違います。永続する幸福はこの生存では得られません。絶え間なく苦のバイアスを受けつつ生きるそれが輪廻の世界です。私達は平安を得る為に先ずここで戦わねばなりません。サンサーラは修行道場です。涅槃への修行努力…

マタイの受難曲を聴けば聖書を信じない人さえ、十字架に額ずきたくなります。釈尊入滅後、愚かにも一切の歌舞音曲を禁じた長老達は、善き音楽が信徒に与えうる清らかな祝福の種を摘んでしまったのです。音楽の力で一体どれ程の人々が悪趣に堕ちず天に生まれ…

善事であれ不善事であれ、目的を成就するには一境性(Ekaggatā)が不可欠です。一境性が無ければ不善事ですら成就できません。一境性とは他を抑圧して得るものではなく、選び取ったもの以外を捨する事で得られます。そのChandaが無いのなら、善・不善に関わ…

ブラジルで修行していた頃、イパネマで離岸流に呑み込まれ瞬く間に数百mも沖に運ばれた事がありました。有情は波打ち際の波の如く生死を繰り返します。しかし波羅蜜が熟した者達は突然、離岸流に呑み込まれ、涅槃の岸まで運ばれるのです。身を任せるべき時は…

知ったかぶりで騙せる人はいません。私達は多くの現象について何も知りません。知っているとしても名前と定義だけ、即ち辞書の項目として知っているに過ぎず、直接体験して了知している訳ではありません。知らない時ははっきり、知らないと言いましょう。ち…

解決すべき問題を前にして、正しい答えが出せないことがあります。心にシコリが二つ生じ、そのどちらかひとつ或いは両方が正しい判断を妨げているのです。二つとは何か?自分が望む答えを出そうと、証拠を捏造し、条件や論理をねじ曲げること。そして何が何…

私はこれが好き、これは嫌い、これは正しい、これは誤っているという先入見に囚われたまま言葉を聞き、好嫌・正誤を振り分けているなら、なぜ聞く必要があるでしょうか?如何なる前提も先入見もなく聞かねばなりません。そうでない時、私達は明らかに、自分…

一般に縁起とは多因多果、すなわち複数の原因が、それぞれ複雑に絡みあって、多数の結果を生んでいくダンマであることを知らなくてはなりません。ある条件の下、ひとつの原因からひとつの結果を生み出すのが縁起だと誤認するひとは、十二縁起の輪の回転をま…

もしあなたが、心の奥底に潜む本当の意図に気づかず、今のあなたではない何かになろうとしているなら、あなたは心の自由と引き換えに新たな仮面を得ようとしているのです。どうか心が何を求めているかを理解し、心を鳥かごから解放して下さい。正にその時、…

人からどう見られるかが自らの行動基準である人がいます。自己を克服する勝利者となるより、重要人物と見られることのほうが大切だと思う人達です。それが無常を常住と見誤る轉倒見によるものだと見抜けますか?人はあなたの成功に興味はありません。故に自…

入出息に散りばめられている一瞬一瞬は、正にきらめくような奇跡的瞬間の連続です。それらはあまりに微細で高速ですから、まるでピンと張られた一本の絹糸のように認識されます。しかしよく観察すればその感覚は、一瞬一瞬、前の刹那を乗り越えていくVedanā…

目で感じる色、耳で感じる声、鼻で感じる香、舌で感じる味、皮膚で感じる触。これらの所縁の経験はすべて究竟法です。それを私達の思考が、名札をつけて概念化してしまうのです。思考活動が重要というのは誤りです。ひとは思考活動で煩悩を肯定します。思考…

死には世間法の死と究竟法の死の二つがあります。世間法の死とは、一般に知られている肉体の死です。究竟法の死とは、一瞬一瞬生起する心、心所、色が、次の瞬間には消滅してしまうこと、及び阿羅漢の死、即ち般涅槃の二つです。世間法と究竟法の正確な理解…

あれだけ心が傷つき、あれだけ苦しみの嗚咽がこみ上げ、あれだけ悲しみの涙が流れたのに、まだ「自分」の為にしか、心が燃えあがらないのですか?その涙は濁り、不浄で、煩悩に汚染されています。そのままでは四悪趣に堕ちてしまいます。さあ何もかも手放し…

Silence - 静寂とは、無音状態という意味ではありません。(私達の聴覚は完全な無音に耐えられないでしょう)求道者にとって本当の静寂とは、思考が止まっている状態を指します。色声香味触をいくら感受しても静寂が邪魔されることはありません。思考が静止…

渇愛は放っておけば、すぐに化膿して執着に変化してしまいます。逆に抑制すれば深層に沈殿し、意識の最高の高みにまで、その汚臭を運ぶでしょう。大切なのは所縁との適切な距離感です。各所縁との適切な距離を知り、常にそれを保つ繊細な感覚は、執着から身…

私の心を震わせるこの感謝の想い。一人一人への感謝がブッダニミッタへ収斂し甘美な菩提心に昇華していきます。これがあれば何も要らない。私にはこれで十分。これだけが真実。心震える感謝の想いは、一刻も早く自己完成せよ、それが恩に報いる唯一の道だと…

正しく説かれた八正道を歩むことは、あなたを批判する人達を蹴散らしながら進む事ではにありません。敵を活かして自分も活かす、これこそが慈悲の本道です。これこそがお釈迦様の道に他なりません。さあ、仏教の大道のど真ん中を、堂々と歩きましょう。そう…

あなたの大義とは何でしょうか?自分は原始仏教の修行者であると、世の中に堂々と名を示すことです。できる機会があるのに活かさなければ、生きる証しを得ることはできません。さあ、仏教者として力をつけて下さい。あなたが力をつければ、放っておいても批…

仏教を信ずるものとして、仏教を修行するものとして、当たり前の正道を歩いていきましょう。あなたがやるべき正しい事は、あなたの狭い了見の中にはありません。お釈迦様が説かれた大義の中にこそ、それはあるのです。お釈迦様の大義に従うことこそ、自分が…

天才という言葉を正しく使わなければなりません。天才とは或る能力が異常に発達している人や、社会で類い希なる能力を発揮する人を指す言葉ではありません。天才とは「価値の転換」を成す人、その人の出現以後、周りの景色が全く変わってしまう程の、圧倒的…

周りの人はあなたの過去しか知りません。彼等の評価にびくびくするなら、過去に縛られて生きることになります。故にあなたが前進する時、人の評価を気にする必要はありません。アドバイスは、既にあなたの目指すゴールに達した人だけから受けなさい。それ以…

あなたがスマホを見る時、見ているのはあなたではありません。眼門に生ずる名色、正確には眼浄色と眼識が、「見る」という働きを形成し、対象であるスマホを感受します。謂わば「見る」という働きがスマホを見ているに過ぎません。しかし自我に妄執するあな…

教育に終わりはなく、学びにも終わりがありません。読み書き算盤を覚えて入学試験に合格する事が、教育の目的ではありません。生まれてから死ぬまで人生で経験するありとあらゆる事が、私達に生の実相を教えてくれます。学び理解し暗記する事を続けて下さい…