2019-07-01から1ヶ月間の記事一覧

仏教とは智慧を深め増大させる修行道です。各修行階梯には相応する智慧の上限が存在します。自らの智慧を越えた真理を看破しようともがけば、対象を肯定または否定する見解への欲貪が生起してしまいます。「不明な時はBlackboxに入れて手放せ」との指導は、…

対象を見るとは本来、網膜に視覚対象が映り込み、それを条件として眼識が生起し、対象を知覚し、一心刹那のうちに消滅する、ということです。私達はその対象を正見を以て見ることができず、渇愛と謬見によって、対象を継続的に存在する実体である何か、又は…

「今この瞬間」名色の連続体はすさまじいスピードで、時系列にそって前に進んでいきます。そして今、この瞬間の名色が、その最先端として生起しています。今まさに、業が形成され業果が結実し、十二縁起が回転し、無常性、苦性、無我性が表象し、四聖諦のす…

トラブルの原因を相手や環境のせいにしてはいけません。それでは問題は決して解決しないでしょう。まず自分の身口意を変えてみてください。思いやりをもって行動し、優しい言葉を語り、心を慈悲で満たしましょう。そうすれば変えようと思わなくても、状況は…

空海は秘蔵宝鑰で、「経を暗記し口にするだけなら、オウムでもできる。語るだけで実行しないなら、猿と異ならない。」と述べています。然り、或る種の修行者は、仏教を言葉で理解するだけで、法を実践しません。できるか否かではなく、実践の努力を続ける菩…

あなたは道を求める志を持っていますか?あなたの心に菩提心は燃え上がっていますか?求道の志とは何でしょうか?求道の志とは、聖なる教えを学び体得するためには、いかなる自利も省みない、という意志です。自分自身について如何なる犠牲を払ってでも、聖…

瞑想の修習を終えるごとに、必ずその一座をレビューすること。改善すべき点は何か、どうすれば改善できるのか、よかった点は何か、どうすれば、よりよくできるのか。いわゆる四正勤法を使って、真摯に自己分析していくのです。この善き習慣を身につけ、阿羅…

お釈迦様のダンマは、難解な形而上学ではありません。私達の心、言葉や行動、身の周りの一切の現象の中に、ダンマは明確に見出されなくてはなりません。無上で甚深、精妙かつ鋭利な、お釈迦様の智慧の剣によって、今この瞬間、この場所に生起消滅する現象を…

父母の恩、一切衆生の恩、国の恩、仏法僧の恩、説法師の恩。日々随念し、感謝の思いを新たにすれば、私達の心は大いに高められ、浄められていきます。では、これらの大恩に報いるにはどうしたらよいのでしょうか?一刻も早く自己完成すること。それが、唯一…

優れた才能、広範な知識、積み重ねた福徳、篤い信仰心などは、謙虚であることによってはじめて光り輝き、人の心をとりこにします。欲天界や梵天界から再生された方であっても、才におぼれ、慢心に足をすくわれ、人生を台無しにしてしまう危険があります。厳…

善行為とは百年、二百年後の人々が振り返っても、瑞々しさが少しも衰えず、心に清らかさ、慈愛、誠実さ、謙虚さを喚起させてくれる行為です。一方、世俗的権勢や財力は、時が過ぎれば藁草のように価値のない、セピア色の記憶になってしまいます。仏教者は二…

もし他人があなたに対して怒りの剣を抜き、彼はそれを正当だと信じ、反論は彼の怒りに油を注ぐのみと判断するなら、固い意志をもって忍耐することを選んでください。二人のどちらの言い分が正当かという問題ではありません。あなたはその土俵を離れ、忍耐の…

生老病死の老(Jarā)は、俗諦では老いる苦のことですが、究竟法でいえば時間経過によっておこる変化です。火界=熱を因とする時間的変化には、成長、成熟、燃焼、老化、腐敗、消失などがあります。また時間的経過によって、エントロビーが不可逆的に増大する…

仏縁を得て信と法欲が芽生える「発菩提」の段階から、無常・苦・無我を正しく智見し、四聖諦を看破して、正見を証悟する「証菩提」の段階に至るまで、仏教にはちょうど念珠の中糸のように、決して変わらぬ芯が一本通っています。それが仏法僧への帰依心です…

どんな人でも社会の中で生きている限り、両肩に食い込むような重荷を、我が身で請け負いつつ歩いています。そこから逃げ出すことは出来ません。故に私たち仏弟子は、人の重荷を少しでも分かち合えるよう、自らの荷物を最小にし、心を慈愛の法悦で満たしつつ…

大きな内的目標を達成するためには、精進(Vīriya)を最大限に活かす必要があります。信と勝解の確立によって善精進が活性化すると、私達の行動パターンは大きく変化します。目標の実現に必要な思考だけが生起し、前進を阻む思考や疑念はまったく生起しなく…

静寂のすすめ。清らかな静寂の中をゆったりと空気が流れ、甘露の芳香を漂わせながら、濃厚なネクターのように修行者を包んでいきます。聖なる沈黙が醸し出す佇まいは濃密で力強く、彼の心は清められ、高められ、ついにはそこに放棄を見出すことができるでし…

過去の不善業の結果として不善な業果が結実すると、それを受け入れる事への不快感から、怒りが連続して無数の刹那、生じます。その狭間に時々「私自身」に対する執着が、生起消滅している事実に気づいてください。私達はこの謬見により自らの怒りを正統化さ…

どれだけ多くの経典を読み、アビダンマを学び、注釈書を比較研究しても、それだけでは単に薬の効能書きを読んでいるに過ぎません。薬の処方と効能を幾ら憶えても、それだけでは病の苦しみから解放されないのと同様、お釈迦様の教えを日々正しく実践しなけれ…

六欲天の境界では、価値の流通は金銭ではなく、福徳によって為されます。無量の福徳を持つ天神の元には、富や名誉が自然に集まってきますが、福徳薄き天神は衣食住にも事欠く状態に陥ります。この世で至心に善行の花飾りを作り続ける人に祝福あれ!死後は必…

昨夜の無礙解道の伝法では四聖諦看破について話しました。どんな時でも決して「今この瞬間」から離れないこと。今この刹那に生起消滅する現象と常に共にあること。その現象の中に本源的な無常・苦・無我を見出すこと。以上は仏道の大前提であり、苦を滅尽す…

邪見抑止の随念法。先ず「私」の外に境界線を引いた「私」対「私以外の一切」という謬見から、「私と私の仲間達」の外に境界線を引いた「私達」対「それ以外の一切」という謬見に進みます。そして次に徐々に境界線を遠くへ押しやって、最終的には境界線のな…

瞑想修行では、眼耳鼻舌身意の六門に生起する雑多な対象を抑止し、専注すべきひとつの対象に心を留めることを、最初に修習します。これは、いかなる感覚対象も流入せぬよう、しっかりと六門をガードすること、それでも六門に生起してしまったら、対象から瞬…

内的静寂の中で瞑目し、入出息に専注を続けると、現前に明るい光を見ることがあります。これは眼識で見る光ではなく、禅定に近づいた心が自然に生成する内的光を、意門が知覚しているのです。心が近行定に近づいている事を示すよいサインではありますが、決…

娑婆世界で巡り会う一切の人や物、地位や名誉には、無常・行苦・無我・不浄という毒針が無数に生えています。摑もうとすれば、ハリネズミのようになって、確実に私達に危害を加えます。身の安全と心の平安を維持する為には、対象を貪ることなく、一定の距離…

切り捨てるものは切り捨て、受け入れるものは受け入れ、客観性を保ち、最終ゴールを見据え、果敢に前進を続けて下さい。どのような苦境にあろうと、それだけで心は晴れやかになり、希望と勇気がふつふつと湧き上がるでしょう。三宝はいつもあなたと共にあり…

心をざわつかせる刺激的感覚対象から離れ、ひとり静かに座って内的平安を見出しましょう。粗雑な感情や思考が一時的に凪いでいるだけでなく、貪りや慢心、怒り、嫉妬等の煩悩が専注によって抑止され、心の表面に一切浮かび上がってこない至福の状態、それこ…

正見の佇まいを簡単に身につける方法をご紹介しましょう。身の周りの一切の物を、それが劣化し破損していく様子を想像しつつ使って下さい。大切に、しかし自然な破損を受け入れながら使うのです。次に周りの人々についても同様の観想をし、最後に自分自身に…

「生起消滅する一切の現象は無常であり苦であり無我である」律経論の三蔵はこの至高のダンマによって貫かれています。その中のどの一句にも、生起消滅の刹那性と三相の無我性が、霊妙に香り立っています。故に私は三蔵を学ぶ時、心に縁起と三相を深く随念し…

Rāgaは普通「貪り」と訳され、Virāgaは「離貪=貪りを離れること」と訳されます。しかし実はRāgaの原義は「色彩」で、Virāgaには、色を失うこと、総天然色の感覚的刺激対象が、突然モノトーンに見えるニュアンスが隠されています。解脱間近な修行者にとって…