今回だけは本当に違います。敗者を予定調和でおさめる、いつものゲームではありません。行苦を随念する絶好の機会です。悪行で利得した者が、ついに悪趣に堕ち行く業法を、眼ある行者はしっかり観察して下さい。天神の加護に随喜し、輪廻世界からの厭離・離…

正見のない心は、一切の対象に対して渇愛をたぎらせています。目前の対象が好きか嫌いか、必要か必要でないか、興味があるか無関心かは貪や瞋の反応ですが、それらの生起は微細な渇愛を因とすることを観察して下さい。どんな対象にも飛びついていく渇愛によ…

托鉢では肉も魚も何でも拒まずにいただきなさい、と釈尊は説かれました。また高温多湿のインドで蔓延する食中毒対策として、いただいた食物は午前中に食べよ、とも説かれました。釈尊が食事による健康法として、唯一注意されたのは、知足知量、すなわち徹底…

集団的酩酊状態では貪瞋痴の基準が甘くなり、加害行為へのハードルが大いに下がります。「善行楽果・悪行苦果の理」を恐れぬ傲慢さが、いつしか心を支配してしまうのです。何れにせよ果実が熟せば、逃れられぬ業の鉄槌が下ります。誰であれ不善を為した者は…

暴風雨は庭草の先端の僅かなざわつきから始まります。世の中に異常な事が起きている場合、どんな小さなサインも見逃さず、「極めて異常である」とあるがままに認識して下さい。それに対して怒りを生じさせても益はありません。それは日常的な些細な不具合に…

一切は無常ですから、やがて仏教も形骸化し腐敗して、人間界から消滅するでしょう。そうなれば真摯な修行者は皆、天界へ転生していきます。相当永い間、人間界や四悪趣はダンマを学べない境界となり、有情の苦しみは増大するでしょう。故に私達は一刻も早く…

修行者は内的なFreedom fighterです。煩悩の呪縛からの自由をめざし、心を解放すべく飽くことなき戦いを続ける魂の戦士です。強烈な前進力を得る為に、歴史的事象を自身の内的な戦いに当てはめてみる、自由を勝ち取った好みの英雄に、善友として心に住んでも…

ダンマを伝えよう、疑問に答えよう、としてはいけません。自分の経験だけを謙虚に語ってください。私はこのような経験をした、と話せばよいのです。自分の意見を語ってはいけません。経験という事実だけを話し、他の人達の経験も聞くように薦めるのです。そ…

いくら盤石な基盤に守られているとしても、一切は崩れ去る運命にあります。予期せぬ時に予期せぬ形で、突然あっけなく崩壊します。昨日までの日々が明日へ続かない。その無常性から目を背けて、一体どんな幸せがありますか?それが仏教でいう苦です。苦の消…

夜明けの直前はとても暗いですが、太陽はもうそこまで来ています。賢明な決断をしましょう。私達の心は常に自由であるべきです。もしあなたの師や先達が規則であなたを縛るなら、彼等から離れて下さい。師の仕事はあなたを自由にする事です。心が自由になれ…

つかんでいる執着の対象が消滅すれば、苦しいと感じます。手放しているはずの刺激的感覚対象が、眼の前で生起すれば、心はそれを知覚しながら、一瞬揺らぎます。苦を感受する危険をそこに見るからです。娑婆世界に生きる事は、このような粗雑な苦の連続的流…

できるだけ沢山の人を幸せにしましょう。どんな小さな事でもいい、一日に三回、周りの人を幸せにしましょう。人を喜ばせる計画は私達をワクワクさせます。見返りを期待しなくても、福徳は何倍にもなって私達に返ってきます。一番遅くても、私達の臨終の時、…

暗記教育は古くさく、役に立たないという人達は、何も分かっていません。自分でも避けてきたので、その力を体験していないのでしょう。年を取っているからこそ、暗記するのです。学習障害があるからこそ、暗記するのです。暗記は教育の中で最も重要な支柱の…

明確な害意で多大な損害を被った、責められるべきは先方、義は当方にある、反撃する機と方法も得た、人々の共感も得ている、そんな状況でもおそらく、お釈迦様は何もなさらないでしょう。「和を以て貴しと為す」。この言葉の意味は大変重いものです。これを…

一切の情報は六門から入力され、その反応は身口意の三門から出力されます。身口意の三業は善心を縁とする時のみ、是認されます。故にいかに好ましくない情報であれ、仏教者は善心で反応します。いかに逆境であろうと、いや逆境であればある程、菩提心が心に…

人生の勝者地上の富の半分を得た人も、一切を失い絶望の淵に堕ちた人も、多くの人に愛された人も、身よりなき孤独な人も、死に臨んでは無常・苦・無我の足のすくむ深淵に、召し捕られていきます。四果を得た聖者と、菩提心の涙で転生する修行者だけが、万人…

我見に翻弄された者は、世界で貪瞋痴を実現せんとし、力及ばぬとあらば世界に背を向け、自らの箱庭に逃げ込みます。一方、仏教者はこの世を骨の髄まで厭い、輪廻の中で苦しむ有情に涙し、慈愛の手を差し伸べるのです。善人悪人の区別はありません。それが仏…

「道」と呼ばれる一切は、真似る事から始まります。「ならう」とは「まねる」に他なりません。先ず習得すべきものを、完全にコピーし暗記しなくてはなりません。初心の段階で「私の個性」や「私らしさ」というものは存在しません。それは道の熟成の最終段階…

禅定の一時的至福は、各刹那、新たな所縁を知覚しなくてよい平安がその本質です。もし如何なる所縁も生起しなければ、絶対的至福が得られます。凡そ原因があって生起する一切の所縁は苦です。生起がなければ苦はありません。各刹那に表象するこのダンマに気…

新年の誓い私達は各々、三宝と独特の関係を持っています。自我と三宝との関係は心の成長によって変化していきます。愛→手足→放棄。どの段階においても、三宝に対して一点の後ろめたさもない心を養うことが大切です。日に一度は三宝と真摯に向き合い、至聖を…

浄土真宗では一念往生、すなわち臨終時に一度だけ阿弥陀様を念ずれば、極楽往生すると説かれます。一見仏説と異なるように思えますが、アビダンマの視点から見ればこれは臨死業に他ならず、その教えにまったく間違いのないことがわかります。浄土教もまたお…

執着が問題なのではありません。「私」と「私でないもの」との間に引く、境界線が問題なのです。慈経には独り子を守る母親の話があります。この経節の真意は、一切有情を我が子として扱いなさい、ということです。その時、私達の心はとろけるような慈愛に満…

情熱をもって善を実践している人なら、衆生の福利を願い心を尽くして積む徳と、自らの智慧の発現との、必然的な因果関係を知っています。心からの布施と固い決意の自己制御なくして、智慧の発現はありません。アビダンマの習得は智慧の種とはなりますが、徳…

個人の権利や尊厳は本来、主張して勝ち取るものではなく、相互に与え合うべきものです。生も死も、その間に起こる一切の事象も、すべて他に依存して生ずる事実を深く随念すれば、「私」も「慢心」も消え去り、共に生きる一切の生命への慈しみが、私達の心に…

人生で一番楽しかった宝物のような記憶。しかし喜びは当時の輝きを失い、とても哀しい色をしています。正に輪廻に内在する本源的な苦です。一方、決して色褪せない至福もあります。思い出す度に反復される恍惚があります。それは発菩提の法悦です。サンサー…

平和とは外的に争いがない状態ではありません。本当の平和とは貪りや怒りを離れた心によって、内側から湧き上がる想いです。他の生命を慈しみ幸せを願う心、いかなる生命も決して傷つけまいとする心が平和の源泉です。故に真の平和があるところには、不正も…

好ましくない感覚対象は、日々間断なく五門に生じます。嫌な出来事や望まぬ結果も、間断なく私達を襲います。しかしこれらは真の問題ではありません。必ずしも苦の原因とはなりません。ではいかに苦は生ずるか?これら所縁に反応して私達が起こすリアクショ…

道場では自らの最善の性質を、前面に出さなければなりません。演技でもいいから、そうする義務があります。本当の自分である必要はありません。それは瞑想の余韻の中で見つけるものです。善友同士がお互いに、抜苦与楽の心で向き合う修行をしていると観想す…

私達は一日のほとんどを不善な心で過ごしています。今この瞬間の心が善か不善かを、虚心に見つめる習慣を身につけられたら、どんなにいいでしょう!善なる心をアビダンマの本で知ることはできません。自らその至福と清浄感に席巻されて初めて、私達はその力…

随念と禅定をしっかりと修習しましょう。そうすればやがて、観行の素地が耕されていきます。観行とは何か?Nāma-rūpaの連続体であるこの生存を、輪切りにして分析し、時間軸に沿って分析し、内在する無常・苦・無我の三相を見抜いて、轉倒した先入見を破壊す…