2020-01-01から1ヶ月間の記事一覧

安定した人間関係には、安定した距離感の維持が必須です。貪ってむやみに距離を縮めたり、怒りにまかせて距離を離してはなりません。喧嘩の後は距離の維持に特に留意して下さい。心を鎮めて瞑想し善心が生起したら、その時感じる最適な距離を保つこと。適切…

お釈迦様は無我相経で、「五蘊のどこにも私はいない」と説かれました。後世の仏教学者はそれを、「私という実体はない」と演繹し、空の哲学を構築しました。お釈迦様にとって実体かどうかは問題ではなく、自我への執着を解く為には、「そこに私はいない」と…

過去に誰かを傷つけようとしたり、実際に傷つけたことがあったなら、本当に傷ついているのは自分自身であることに、気づかなくてはなりません。人を傷つけることによって、勝利を得る事はできません。ですから一刻も早く心の中で、その人への感情を正常化し…

逆境時は最終ゴールだけを見続けること。それが鍵です。うねる山なりの荒波に、船が木の葉のように揺れる。荒れ狂う海水が、船首から甲板を叩きつける。足元を見れば、恐怖で海に吸い込まれそうになる。そんな時は北極星を見上げるのです。嵐が収まり海が凪…

お釈迦様は阿難尊者に、「善友こそ修行のすべてである」とおっしゃいました。ダンマにおいて賢明であり、種々の業処を共に修習し、禅定によく住し、信において堅固である善友と共にあること。それは自らダンマを学び、修習し、入定し、信を確立する以上に、…

未体験の知識は事実ではなく、体験した事実も一つではありません。如何なる条件でどの視点から体験したかで、人の認識は大きく異なります。私はこの様に体験し認識した、という「事実の条件」を失ってはなりません。一人一人、多様な事実認識があることを、…

私達は時々「大人の事情」で、無意識に怒りの対象のすり替えを行います。対象への心奥の怒りを抑圧せざるを得なくなると、害意をぶつけやすい他の対象に怒りの矛先を変えて、とにかく外へ爆発させることを画策します。多くの場合、子供、配偶者、目下など無…

郵便物やメール、電話やSNSには注意が必要です。前触れもなく突然土足で侵入してくるや、発芽したばかりの繊細な菩提心を、踏み潰してしまいます。修行者はコミュニケーションを常に受け入れる必要はありません。若木には柵が必要です。普段は扉を閉めておき…

慢心と物惜しみがある限り、ダンマを口にしてはなりません。伝わらぬばかりか、他を攻撃する不善業を形成してしまいます。恥じ入る程の謙虚さと正直さ、燃え上がる菩提心が、心に確認できる時のみ、ダンマを語ってください。そうすれば、有形無形の貴重な法…

人間界では、物質的豊かさは金銭の有無で測られますが、天界ではそうではありません。天界の通貨は福徳です。徳なき者は貧しき者です。利を追い求める余り、徳を汚すことがあってはなりません。利に賢(さと)く智に暗き者は、目先の益を得るために不善を為…

ひとは語りたい欲求があっても、不善心を抑制し善心を喚起させる為、自己を律し沈黙します。一方、安らぎを得た心は専注を楽しんでいると、言葉を発することが困難となり、自然に聖黙するのです。瞑想室では何ぴとも如何なる時も、聖黙の人の邪魔をしてはな…

精神修行に熟年も老年もありません。試合はいま始まったばかり。勝負はこれからです!今すぐ立ち上がり、まっすぐ歩き出しましょう。志は青ければ青いほどよい。その青い大義をずっと護持していきましょう。正しい心を持つ者はいつの時代でもどこにでもいる…

ひとはそれぞれの場所で、それぞれの条件に応じて、少しずつ成長していきます。その進歩が遅々としたものに見えても、辛抱強い慈愛の心で、支えてあげて下さい。いま何を目指しているにしても、その根底に「より善く生きていこう」という思いがある限り、無…

転倒見は身見を生じ、身見は欲貪を生じ、欲貪は瞋恚を生じ、瞋恚は今生と来世の不幸を生じます。貪るものが得られなければ瞋恚が生じ、手にすれば多く他を傷つけ彼に瞋恚を生ぜしめます。これが世の理です。故に釈尊は転倒見の砕破、すなわち四聖諦の看破を…

異性や家族に強い愛着を持つとき、私達が本当に摑んでいるのはその人ではなく、その人に対する自らの感情です。一般に、 私達が身の周りのものや人に対して抱く愛情は、すべて自我への執着から生じているのです。これを理解すれば、 なぜ聖者への道が 身見の…

或る人達の自我は、肥大化した自尊心という頑強な城壁で護られていながら、硬いカサブタがとれると生まれたての皮膚が現れるように、突然自我がぽろっととれて、無垢の菩提心が生ずることがあります。かと思うと、柔和だが決して剥がれない、とりもちのよう…

対象への強い執着があり、不本意な現実の受け入れを心が拒否する時、怒りや嫉妬、不安や悲泣が生じます。それは容易に抑制できません。まず執着しているものを探して下さい。そして対象に内在する無常や苦、実体無き性質を、深く随念する。そうすれば心は次…

ダンマと菩提心の関係は、太鼓とバチの関係に似ています。強く叩けば太鼓全体が力強く共鳴し、弱く叩けば皮だけが振動します。あなたの菩提心が強く甘美なら、ダンマは様々な方法であなたを祝福してくれるはずです。文証や理証ではなく、あなたはその祝福を…

観想という技法は、想念の視覚化(visualisation)ではありません。心と言葉と行動を、内証と随念と表象として一体化し、時間と空間の中に具現・投影化していく方法です。その時、身口意の三業は三密となり、修行者とダンマが不二となるのです。私が随念とい…

止であれ観であれ、行が正しく修されている時、心はサティと不二一体です。視覚対象を見る時、今この刹那に生起した色所縁とだけ知覚します。一刹那とはなんと瑞々しくヴィヴィッドな現実であることか!陽転したサティは、所縁の属性も遠近も知りません。た…

調教されていない心は、余りに微細で素早く生起消滅する名色を、直接観ることはできません。しかしアビダンマの学びにそって随念し、究極のリアリティの佇まいを窺い知ろうとすべきです。智慧を証悟していなくても、智慧の光を目指して進むべきです。さもな…

怒り、不安、悲哀、嫉妬、物惜しみ、遺恨など、Dosaより生ずる感情は、私達の人生に壊滅的な打撃を与えます。過去に生起したDosaを思い出してはなりません。カサブタを剥がして傷口をいじってはなりません。Dosaの記憶は同じDosaを再生起させます。十分にガ…

正思惟とは出離・無瞋・無害で構成されます。それは煩悩が根絶され、無条件の慈と悲が、心に確立された状態です。正見を悟れば、同時に正思惟を悟ります。これらの証悟は、覚醒された四念処の完成によって起こります。四念処の完成は、一切有情への無条件の…

「今この瞬間」は一瞬一瞬、永遠の過去へと失われていきます。「今この瞬間」について思考すれば、その瞬間から心が離れてしまいます。正に一瞬の途切れもない専注を要求しているのです。そして涅槃の扉はそこだけにある。私達は切れ目なく訪れる各瞬間から…

真実を解き明かすダンマの言葉には、ひとを救う圧倒的な力があります。正しく伝承されたお釈迦様の言葉に、無用の箇所はひとつもありません。正しく読み、理解し、暗誦し、随念して下さい。統一された心で識別し、智慧で直接体験し、心奥に沈澱させて、ダン…

いくら辛辣に彼を批判し、誹謗しても、空しいだけです。激しく攻撃し、社会からの抹殺を謀ったところで、あなたは彼に勝つことはできません。仏陀と一つとなった彼の心はあなたの心よりずっと大きく、思いをひたすら前面に運んでいるのです。心の底から、あ…

自分自身をどのように認識していますか?自己を「継続する実体」と見る瞬間が、未だ心に多く生起するなら、あなたは無明に覆われています。私という実体はなく、刹那的に生起消滅する名色の連続体にすぎない、と継続意的に認識できていれば、無明を打ち破る…

なぜ愛の力か?それはサンサーラが渇愛の力で廻っているからに他なりません。私達は執着を因として存在しています。ですから輪廻の回転からスピンオフする時も、その力を利用するのが最も理に適っているのです。私達に内在している最強の力を解脱に向ければ…

愛に突き動かされ、前も後も上も下も内も外も眼に入らず、どんな犠牲も顧みず、猪突猛進する。なんと素晴らしいことでしょう!私達の心奥には、この強力な愛の力が潜んでいます。最大限に引き出せば、この力は私達を菩提へ導く圧倒的な推進力となるでしょう…

私達人間はみな、善根を持って生まれてきます。無常・苦・無我・不浄のサンサーラで、無明に眼を覆われて、一瞬の蜃気楼に眩惑されて悪趣に堕すのも人間なら、泥水の底で発芽し、水面に顔を出し、細く長く茎を伸ばし、大輪の蓮華の花となって、汚濁の世から…