2022-02-01から1ヶ月間の記事一覧

演技をやめれば壊れてしまうような場所にいることは悲劇です。自分に嘘をついてまで守る何かがあるのですか?自らを見つめ、自分の嘘を認識し、慈悲の心で自らを赦し、自分自身を理解すること。仏教の智慧はそこからしか生まれません。本を幾ら読んで受け売…

ひとの話を聞きつつ、次の反論を考えているなら、あなたは何も聞いていません。ひとの話を聞く時は、全神経を集中して、ひと言も聞き漏らさずに聞かなければなりません。語られる言葉だけでなく、その言葉によって運ばれる感情や行間の意図を汲み取り、相手…

歴史の流れを変える偉大な仕事は、独りでできるものではありません。人はみな自分の目の前の小さなパイを少しでも美味しく焼くために、努力を続けています。そしてそれでよいのです。業績を残すことが重要なのではなく、心を清らかにして一刻も早く自己完成…

Past is Dust!過ぎ去った過去はすべてゴミ箱へ!過去の幸せや過去の悲しみに囚われて生きてはいけません。まだ来ぬ未来の夢にすがって生きてもいけません。今この瞬間に心を向け、目の前の対象をあるがままに観察して下さい。そうすれば無用の苦しみと貪りは…

上座部大寺派こそ真の仏教だというのは、幻想に過ぎません。南方の僧院にこそ、瑞々しいブッダ僧伽の佇まいが残っているというのも幻想です。そこにだけ本物がある、そこに行きさえすれば!あなたはただ現実から逃げているのです。仏教は今この瞬間この場所…

孤高を自認する修行者でも、自ら自覚している以上に、人間関係に依存しています。しかしひとは大抵慢心と所有欲で、人間関係を台無しにしてしまうのです。所有を願わずに愛することはできないでしょうか?愛を理解し、所有を理解して、私達がいかに混乱して…

愚かな人にも閃きの瞬間は訪れます。ほんの一刹那ですが、あるがままの真実を自らの目で見るのです。しかし彼は自分で見た真実を受け取れず、今まで通りの古臭い先入見に固執してしまいます。逆に智慧ある人はあるがままの真実を一瞬でも掴むと、過去の先入…

問題を解決する時は、決して目を背けてはならず、原因をあるが儘に観察し、問題の本質を深く理解しなくてはなりません。問題を深く理解するには、答えを見つけ出したいという衝動や、これが答えだろうという推測から、完全に自由になることが、絶対に必要で…

一切の不善思考と感情を抑止する為には、あるが儘に観察することから始めます。正しいとか間違っているとかではなく、思考や感情の動きを追って、決して見失わぬよう観察します。私達はそのようにして思考と感情を如実に理解するのです。如実に理解する事か…

Mettāは誰かに与えるものではなく、心が完全に静寂になった時、あなたに自然と生起する精妙な思いです。一切有情に手を差し伸べる時、まだ見ぬ何千万の人々に思いを馳せる時、その瞬間の静寂の中にMettāがあるのです。Mettāには過去も未来もありません。いま…

あなたはどの煩悩に悩まされていますか?怒りですか?嫉妬ですか?恐怖ですか?必要なのはそれが生じた時、逃げたり、抑え込んだり、蓋をしたりすることではありません。怒りなら怒りを理解すること。なぜそれが生起したのか、その原因を分析し、現象をよく…

各自の五取蘊の連続体は自燃する永久機関です。私達は他の連続体に身体的痛みを与えてはならず、貪りの心も怒りも喚起させぬよう、できるだけ配慮しなくてはなりません。もちろん彼等は私達の心に身体的痛みや貪りや怒りを誘発させる時もありますが、可能な…

心は本来透明な水のようなもので、同時に生起する心所の多彩な色を映しながら無色透明であり続けます。もちろん凡夫の心はざわついていて、表面にはさざ波が立ち内面は対流が生じています。一方、聖者の心は静寂で、表面は鏡の如く満月を映し、月の光はまっ…

凡夫の心は微生物や細菌が生息している水に喩えられます。刺激的感覚対象という不純物が混入すると、キレサがタンパク質の分解を始め、水は腐り汚臭を発します。水を清らかにする為には、最終的に細菌の根絶が必要ですが、それまでの間、刺激的感覚対象を取…

様々な難問や不吉な予兆が錯綜しあい、問題解決が不可能に感じる時もあります。しかし突破口は必ず身近にあると信じて下さい。悲惨な状況があなたを失敗させるのではなく、自らの悲観的見解があなたを失敗させるのです。あなた自身をまばゆい光の中に置き、…

周りの人や世界のあるが儘の姿を知る事ができたら、私達は不善を最小限に抑える事ができます。世界をあるが儘に観る上で大きな障害となるのは、私達の期待と執着、そして心のシコリです。私達が空気や水のように対象を受容できれば、一切の対象は自ずとある…

四念処法は心と心所を識別する修行法です。身受心法という四領域で所縁を取る心と心所を、それぞれ深く観察していくのです。例えば、歩いている時、私は歩いていると知る、というIriyāpathaの実践法も、身体の動きの実況ではなく、身体を動かしめている心と…

目を開けている時、明けの明星のような光が突然キラリときらめく事があります。それは・いま善心が生起している・智慧も生起している・八正道にそって歩んでいる・今やろうとしている事は正しい・三宝が加護してくれているという合図です。私は心でYES!とつ…

喜びの事象を経験し、世界は捨てたものではないと感じても、決して油断できないのが人生です。しっぺ返しは避けられず、最後は悲劇で終わります。この世に永遠の繁栄が存在しない以上、悲劇的カタルシス、悲劇の中の法悦が得られる最高の境地です。仏教は正…

日々細心の注意を払いつつ自分に起こる事を観察すると、主たるVipākaが結実する前に、前触れのVipākaが訪れる事に気づきます。業と一言でいっても、その行為を意図し、準備し、行為を始め、完了するまで無数の刹那業が形成されるので、よく観察するとそんな…

避けられない事情で人を叱る時は、彼の心に怒りが生じないよう叱って下さい。決してプライドを傷つけないように!彼はあなたを聞き入れながらも、言い訳するかも知れません。その時は片目を瞑って聞いてあげて下さい。でも本当は言い訳する気が起きない程心…

他人を糾弾する前に、他人を陥れて利得を得ようとする自分の心を見つめなさい。他人の中にある不善を攻撃する前に、自分の心にそれと同じ不善があることに気づきなさい。私達は決して他人を非難するべきではありません。むしろ自分の心に巣くう不善傾向を厭…

あなたが所謂「気づきの瞑想」を修習するなら、最も大切なことは「評価せずに観察する」ことです。あなたの個人的な嗜好、それが好きとか嫌いとか、いいとか悪いとか、そんな評価から完全に自由になることです。簡単だと思いますか?とんでもない!それは私…

芸術作品であれ、智慧の証悟であれ、本当によいものが湧き出る時、思考は完全に停止しています。そこには善/不善のいかなる思惑もありません。あるのはただ不動の専注と至福、そして何よりも心身を突き抜ける驚きです。一度でもそれを体験した人は思考から…

この世俗世界で、富貴を得たい、信奉者を得たい、名誉を得たい、幸せになりたい。ダンマを知る人にとって、それらは目標にも貪りの対象にもなり得ません。長くてもあと数十年で命尽きる今生で、どんな生きた証しが必要でしょうか?手放してしまいなさい。そ…

怒りであれ悲しみであれ、不安であれ嫉妬であれ、Dosaを頻繁に生起させると、周りの人はあなたの機嫌に気を遣い、腫れ物に触るように接し始めます。いつかあなたはハイメンテナンスな「周りに気を遣わせる人」になってしまうでしょう。その結果、徐々に人は…

過去に形成した業の結果は、鋭い矢となって毎瞬、私達に突き刺さっています。中にはすぐ適切な処理をしないと、手に負えなくなる事象もあります。故に業果に対しては、1. 逃げずに直面する。2. 状況をあるがままに受け入れる。3. 最適な方法で対処する。4. …

精神的自由とは、外界で何が起きようと心は静寂のまま動揺しないという事です。刺激的感覚対象や大きな目標を掴むとき、ひとはそれを失う恐怖も引き受けています。心の自由と引き換えに、恐怖の種を受けいれているのです。あなたが輪廻から解放されたいなら…