2020-01-01から1年間の記事一覧

浄土真宗では一念往生、すなわち臨終時に一度だけ阿弥陀様を念ずれば、極楽往生すると説かれます。一見仏説と異なるように思えますが、アビダンマの視点から見ればこれは臨死業に他ならず、その教えにまったく間違いのないことがわかります。浄土教もまたお…

執着が問題なのではありません。「私」と「私でないもの」との間に引く、境界線が問題なのです。慈経には独り子を守る母親の話があります。この経節の真意は、一切有情を我が子として扱いなさい、ということです。その時、私達の心はとろけるような慈愛に満…

情熱をもって善を実践している人なら、衆生の福利を願い心を尽くして積む徳と、自らの智慧の発現との、必然的な因果関係を知っています。心からの布施と固い決意の自己制御なくして、智慧の発現はありません。アビダンマの習得は智慧の種とはなりますが、徳…

個人の権利や尊厳は本来、主張して勝ち取るものではなく、相互に与え合うべきものです。生も死も、その間に起こる一切の事象も、すべて他に依存して生ずる事実を深く随念すれば、「私」も「慢心」も消え去り、共に生きる一切の生命への慈しみが、私達の心に…

人生で一番楽しかった宝物のような記憶。しかし喜びは当時の輝きを失い、とても哀しい色をしています。正に輪廻に内在する本源的な苦です。一方、決して色褪せない至福もあります。思い出す度に反復される恍惚があります。それは発菩提の法悦です。サンサー…

平和とは外的に争いがない状態ではありません。本当の平和とは貪りや怒りを離れた心によって、内側から湧き上がる想いです。他の生命を慈しみ幸せを願う心、いかなる生命も決して傷つけまいとする心が平和の源泉です。故に真の平和があるところには、不正も…

好ましくない感覚対象は、日々間断なく五門に生じます。嫌な出来事や望まぬ結果も、間断なく私達を襲います。しかしこれらは真の問題ではありません。必ずしも苦の原因とはなりません。ではいかに苦は生ずるか?これら所縁に反応して私達が起こすリアクショ…

道場では自らの最善の性質を、前面に出さなければなりません。演技でもいいから、そうする義務があります。本当の自分である必要はありません。それは瞑想の余韻の中で見つけるものです。善友同士がお互いに、抜苦与楽の心で向き合う修行をしていると観想す…

私達は一日のほとんどを不善な心で過ごしています。今この瞬間の心が善か不善かを、虚心に見つめる習慣を身につけられたら、どんなにいいでしょう!善なる心をアビダンマの本で知ることはできません。自らその至福と清浄感に席巻されて初めて、私達はその力…

随念と禅定をしっかりと修習しましょう。そうすればやがて、観行の素地が耕されていきます。観行とは何か?Nāma-rūpaの連続体であるこの生存を、輪切りにして分析し、時間軸に沿って分析し、内在する無常・苦・無我の三相を見抜いて、轉倒した先入見を破壊す…

四資具(衣食住薬)は本来、生存の苦を軽減する贅沢品です。冬の寒さや悪天候の中で、私達は如何に四資具に依存しているかを痛感します。四資具は過去世の善業の結果として享受している事を知らねばなりません。四悪趣では四資具は満足に得られず、衆生の苦…

眼の前に存在する、あるがままの世界は、そのまま真実です。しかしその世界についての記述は、真実ではありません。この二つを混同してはなりません。世界についての記述は常に謬見に陥ります。それは戯論と呼ばれます。戯論がつきたとき、心は鏡のように鎮…

死随念を日々修習していると、自らが明確な認識をもって、死の床につく夢を見ることがあります。その時あなたは、生存への渇愛がどれ程残っているか、為すべき事を為し得ていない瞋恚が、どれ程生起するかを如実に知るでしょう。臨終の霊夢により自らの修行…

一切の現象には実体がなく空である、とは、陽炎の如き幻影だという意味ではありません。ここで時間とは何かが変化する時に生ずる物差しです。生から滅への時間的変化が老です。生起がなく消滅もなければ変化もなく時間もありません。それが実体であり涅槃で…

釈尊より無数の先達の手を経て、法があなたに手渡されました。仏教に巡り会えたのは、あなたが道を求めたからではなく、先達がダンマをあなたの目の前に置き、あなたの波羅蜜がそれを見つけたからです。あなたがこの聖なる法のバケツリレーをやめてしまえば…

無明は暗闇、叡智は光明。光明の前で、暗闇は無力です。漆黒の中、手探りで生きるのはやめましょう。光を当てれば一瞬で解決します。心の隅がまだ暗ければ、光を当てて解決して下さい。仏智は太陽の光の如し。ダンマの大光明のもと、すべては明らかになりま…

或る事象が自分に良くない知らせをもたらしそうな時、先ず私達は心の状態に注意を払わなければなりません。もし心が十分に強くないなら、その事象に対峙する前に、心をダンマのご加護と積極的展望で、パンプアップして下さい。そうして初めて、勇気をもって…

Adhiṭṭhāna(決意)とは、やることを事前に心に明確に宣言し、舵を固定して目標に向かって突き進むことです。優柔不断の心が入り込む余地はありません。大きな目標は誓願と呼ばれますが、歯を磨く、といった些細な行為も、すべて決意して行います。決意を習…

24億人の基督教徒の中には、新約の最終章、ヨハネの黙示録を、ハルマゲドン(世界最終戦争)の預言と読み取り、それが千年王国に至る避けられぬ試練ととらえ、今がその時だと信じている方々がおられます。施政者達の潜在意識にその謬見が刷り込まれていたら…

どのような分野であれ、他人と競えば、貪りや慢心、敵意や嫉妬が生じます。故に他人と競争してはいけません。打ち負かすべきは自分の限界です。昨日までの自分の能力の限界を、今日、越えていく。これはSelf-transcendence(自己超越)と呼ばれ、私がずっと…

魂の道を見失ってしまった人々の為に仏教を説く。固有の伝統様式に執われず、上座と大乗の二辺をも超越した仏教。誰の心をも豊かにする、清らかさの実践法としての仏教。日本の先祖供養の慣習を包含する、懐の深い仏教。もし今お釈迦様が生きておられたら、…

米国内の分断や米中問題など、平和について考えさせられる機会が多くなりました。貪瞋痴が強い人間界では、「世界はひとつ」のグローバル意識を、恒常的に保つことはできません。故に各国家を家族とし、向こう三軒両隣、和を重んじながら、お互いに仲良く付…

不善心は人から人へと、一瞬で感染していきます。燃えない情熱、見失った希望、優柔不断、悲観や絶望、瞬く間に他人の心に感染してしまうのです。故に自らのDubbalatā - 心の弱さを決して表象させてはなりません。短い瞑想と誓願で心を奮い立たせ、善友同士…

智慧は思索や分析や推敲では得られません。熱き信と情熱をもって、求め続けなくてはなりません。スタンザを暗記し、繰り返し唱え、何度も何度もその真意を味わい、随念する必要があります。本当に重要なダンマは、それ程多くはありません。広さではなく、如…

Aの故にBが生ずる、という論法をダンマの読取りにそのまま使えば、一切は戯論となります。涅槃証悟に至る縁起は、十二縁起を熟知した上で、各支間に働く二十四縁起の複雑な関係性を解きほぐしつつ、名色を識別する事で看破できるのです。十二支、二十四支の…

ひとつの現象の生起には、無数の複雑な因と条件が必要です。個々の現象は無数の縁起によりバラバラに生じます。「Aという事象の故にBという事象が生ずる」とする想定は、ナイーブな読み方に過ぎません。歴史学者も社会学者も、みなこの不確実な読解法に依存…

論争や誹謗中傷をする人の心底には、不快や嫉妬、吝嗇や慢心があります。菩提心や慚愧はありません。あなたが如何に善を為しても、それを好まず、嫉妬し、執拗に妨害する人が必ず現れます。お釈迦様はそのような時、決して相手にせず、反論せず、黙々と八正…

今日の世界に異変を見いだしても、大騒ぎをしなければ何も無かったのと同じ、明日も同じ世界が続いていく・・小さな過失に目を瞑るにはよい方法ですが、仏教者は沈黙を守りつつ、変化や亀裂を、策略や危機を、如実に認識しています。何故ならそれが世界を冷…

信は争いを知りません。本当の信を持つ人は、本当の信を持って別の道を歩む人に、心からの尊敬と慈愛を感じます。真の愛国心を持つ人は、真の愛国心を持つ他国民の心に、深く感動し共感します。そこに敵対の心はありません。異なる道であっても、善心は差異…

仏教は死ぬことと見つけたり。長命する前提で思考し、計画し、行動すれば、謬見の上の砂上の楼閣となり、苦を逃れるすべはありません。今この瞬間にも死が訪れると観じ、一瞬一瞬、全力を尽くすのが仏教的生き方です。これは死随念として体系化されており、…