2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧

禅定に興味がある方は、止行の修習から始めればいいでしょう。Vipassanāに興味があるなら、観行の修習から始めればいい。釈尊の教えに惹かれるなら、アビダンマから始めましょう。どの道から歩き始めてもいいのです。いずれSaddhāの大道に至り、発菩提し、そ…

思考はとてもトリッキーです。どのように善なる心を持つか、どんな善行を為すか、如何に善なる言葉を語るかについて、貪りの心で思考したりします。その思考はもちろん、善思考を装った不善思考です。思考しながら心の中をのぞき込めば、それが本当は善か不…

アビダンマを学べば智慧を育てられるでしょうか?いいえ。アビダンマは智慧のフレームですが、智慧そのものではありません。渇愛と執着を離れ人に分かち与えること、そして、他の生命を傷つけず善行を為すこと。この二つの実践によって初めて、心が清浄とな…

無常・苦・無我の三相の随念は、禅定修行にとって欠かすことのできない、大切な要素です。三相随念は心を強力にダンマへ向かわせ、今この瞬間に生起している禅定の、無常性・苦性・無我性をも、しみじみと実感させてくれます。これが如何に禅定を高め深めて…

極く微細であれ、怒りや不快が生起したら、修行の素晴らしいチャンスだと捉えて下さい。背後に、思わぬ形で、渇愛や強力な執着が見つかるはずです。それらのLobhaが直接因となり、あなたの心底に蓄積されたDosaが、噴出してくるのです。Dosaの感受→背後のLob…

今この瞬間と共にあることを決して忘れぬこと。今この瞬間に感受している対象から決して離れぬこと。それがSati(正念)です。正念が生起している心を経験すればするほど、正念なき心を、わら草のように感じることでしょう。正念の味わいを知らぬ人生は、膨…

瞑想について、正しい理解が足りないと、瞑想の入り口に立つことができません。正しい理解とは何か?瞑想に何も求めず、手放しでただ座る、ということです。これを怠ると、瞑想やその結果に対する微細な執着が心に生じてしまい、その故に私達は、瞑想の入り…

仏教修行について、知っておくべき二つの真理があります。 1)今この瞬間は常にここにあり、アクセスできなくなる事は絶対にありません。私達の不善心だけがそれを見失うのです。 2)お釈迦様が説かれたダンマは、すべて実際に経験し実証することができます…

常にSati(正念)を以て、今この瞬間の観察者でいること。妥協の余地はありません。昨日のTVの話でいえば、正念が生起している限り、刻々と変化する色彩と音声から、どんな概念や意味も、絡み取ることはないでしょう。色彩の所縁を色彩の所縁と知る、とは、…

TVから感受するのは、時々刻々変化する様々な色彩と、耳から聞こえる音声だけです。それを識別すれば、色彩と音の生滅が延々と続く、退屈な時間に過ぎない事が分かります。色彩と音声から意味を絡め取り、アタマで物語を構築することに、何の意味があるでし…

サイズの限界を克服して名色を識別し、速度の限界を克服して生起消滅を観れば、あなたは三相を看破するでしょう。そして煩悩が根絶されます。身口意による業の形成は止まり、苦の原因は完全に消滅します。それが「滅諦」です。あなたは般涅槃を待たずに寂滅…

未だ究竟法において、Nāma(名)とRūpa(色)を識別できず、様々な対象に対するTaṇhāを、抑制できないうちは、一切を空とは見ずに、持続的に存在する現象であるかの様に扱いながら、名色の各相を随念し、禅定によって渇愛を抑制していきます。その上で「一切…

一切の現象は実在する、或いは実在しない、という見解は、直感的誤謬に基づく心の傲慢な推論です。五蘊・十二処・十八界は、外界と内面の境界線である五つの浄色(Pasāda)における、「知覚する主体」と「知覚される対象」との接触に過ぎません。私達は実際…

信がなくても気づきだけで悟りの光が得られると、思っていませんか?悟りはそのようには訪れません。私達は無明の暗闇を茜色に染めるまで、涅槃を求めて泣いて泣いて、叫んで叫び続けなくてはなりません。そうやって初めて、涅槃というまばゆい太陽が昇り、…

仏教の信は確証ある信?何たる胡散臭さ!釈尊はそんな事はお説きになっていません。これを語った古えの碩学は、信を知らなかったのです。泣き叫びながら三宝を求めずして、如何に輪廻を厭うのですか?輪廻を厭わずして、如何に涅槃に到るのですか?燃え上が…

私の敬愛する或る老師は仰っておられます。「仏教学の基礎がないということは、秤や升なしで商いをするようなもんじゃ。禅だけやっておればよい、ということにはならん。禅だけではあぶない。阿毘達磨や唯識をやらん人は、正しい道を知らんから、すぐに外道…

「在家のまま涅槃を悟れるでしょうか?」「できます。その為には、常に高徳な師と弟子の集いに交わり、絶えず随念し瞑想し、涅槃を求めて三宝に泣きつくこと。そうすれば心を汚す泥が洗い流され、涅槃を見るでしょう。心は泥中の針、三宝は磁石。泥を落とし…

その肉体の連続体はあなたではありません。その心の連続体もあなたではありません。無機質な部品の集りに過ぎないその存在は、瞬間で輪切りにすれば名色の集合体であり、時間軸に沿って見れば、 多くの現象を巻き込んで進む期限付きプロジェクトです。どこに…

アタマで理解しただけの仏教では、心を守り切れません。うろ覚えのダンマでは、役に立ないのです。吹き出す煩悩と不善業果は、大津波の様に容赦なく襲いかかってきます。ですからアタマではなく、心にダンマを叩き込むのです。無常性と苦と無我性を、心のヒ…

不善心所には十分な注意が必要です。生起した瞬間に、素早く手を打たねばなりません。貪りであれ、慢心であれ、自我肥大であれ、怒りであれ、悲しみであれ、不安であれ、嫉妬であれ、物惜しみであれ、悔恨であれ、放っておけば、瞬く間に、制御不能な感情の…

日々、無数の事象に遭遇する私達は、その各々の経験に対して、好意的に反応するか、不快感をもって反応します。そこには明らかに渇愛があり、私達はその都度、それを認識している必要があります。もし好き嫌いの反応が無いなら、そこに渇愛はありません。私…

一度でもあなたに害意を持った人を、赦すことはできませんか?ならば、その方の弱さ、愚かさ、稚拙さ、そしてこれから先、背負わなければならない、荷の重さ、行程の遠さを、想像してあげて下さい。その方もまた、私達と同様、無明の犠牲者なのです。困った…

お釈迦様の在世当時、多くの偉大な在家弟子の方々が、預流果や、それ以上の境界に、達せられました。卓越した定力や知識がなくても、無常・苦・無我の三相を、本当に実感し、世を厭い、息もできぬ程に三宝に救いを求め、善行の中で自己を失えば、現代人のあ…

技術は貪るに価しません。技術は素晴らしい速度で進歩しますが、将来、必ず陳腐化します。将来、陳腐化するものには、執着や散財をせずに、抑制的で受動的な態度を保ちましょう。そうすれば本当に価値あるもの、陳腐化せず、永く輝きを失わない、魂の成長、…

相手の反応に過敏となる余り、思いをはっきり伝えられない大人達を、子供の頃からたくさん見てきました。気持ちはよく分かります。でもそれは奥ゆかしさではなく、有害な悪癖です。相手の気持ちを聞き、自分の気持ちも伝えた上で、慈愛を以て折り合いをつけ…

致命率は低下していますが、コロナの第二波が欧米で猛威を振るっています。山積する国際問題。世界経済崩壊の予感。未来への不確実感が、私達の全体感情を重くしています。所詮、世界はこんなものです。私達はこの絶好の機会に無常・苦・無我を念じ、渇愛か…

渇愛の対象が得られなければ、怒りや嫉妬が生じます。我見が強い人は、自尊心が毀損されたと感じ、さらにDosaを生起させます。そして論理のすり替えをしてしまう。懲罰の為の怒り等、身勝手な言い訳を掴んで、心から信じてしまいます。Dosaが生起したら、そ…

娑婆世界は時に迷路のようにこんがらがって、無事に抜け出せる方法は無いように見えます。「もうダメだ、私は詰んだ!」心はダメな理由をまくし立てます。しかしいくら将来を悲観視したところで、まだ何も起こっていません。大抵の偉大な成功は、概ねそこら…

戒律は、それが成立した時代と地域の、文化や生活様式の香りがします。仏教も基督教も回教も、「異国、異人、異教」の微かな異臭がするのです。釈尊の御遺言にある通り、ブッダ・ダンマの真髄は、各時代や文化の中で最適化していく必要があります。仏教を「…

修行でも、世俗の人生でも、あなたが本当に成功を願うなら、いつも明るく元気いっぱいでいることから、始めましょう。肩をすぼめて、眼をしょぼつかせながら、成功した人はいません。復讐心で成功した人もいません。胸を張って、自信を持って、慈悲の心で計…