2019-10-01から1ヶ月間の記事一覧

心から慈悲がほとばしり出るようになるには、あらゆる生命に対して慈悲を生起させる練習を、徹底的に行う必要があります。昼夜も前後も上下もなく、一切に対して徹底的に慈悲を生起させる。各生命の根底にある無明に慈悲が向かうようになれば、やがてあなた…

経本を開く時、禅座に坐る時、至心に省察しましょう。「私の福徳は円満だろうか?私の分かち合いに喜びが伴っているだろうか?『悪を為さず善を為し心を浄めよ』との釈尊の教えは、いま私の心に生きているだろうか?一切有情を我が親、我が子として慈しみ、…

仏は私達の不善心を見ることなく、私達の菩提心にだけ感応してくださいます。不善なる衝動と善なる衝動が、入れ替わり生滅している私達の心の連続体は、仏にとって何の意味もありません。仏は私達の救済だけを誓願しておられます。だからすべてをさらけ出し…

ダンマをあるがままに看破すると、信は太陽のように燃え盛り、見るものすべてはキラキラと輝き、白銀の光の円柱が天上から我が身を貫きます。そこでは恥じ入るような謙虚さと、浄居天と見まごう清らかさが同居し、菩提心は五蘊を知らず、その特相は無分別な…

欲界の煩悩が抑制され五根を生じる迄が、一番たいへんです。五根が活性化すれば禅定が得られます。禅定が確立すれば観智が目覚めるのです。名色の識別を続けていくと、やがて観智が熟成し、五根が五力に昇華し、最後には七覚支が陽転します。ここまでくれば…

五戒に禁酒が含まれている真意は、不善行為を誘発する原因から離れる事にあります。釈尊は不善因となる六種の衝動について説かれました。賭博への衝動、祝宴や祭りへ参加する衝動、怠ける衝動、悪友と交際する衝動、お酒等の嗜好品で貪る喜びを得る衝動、刺…

私達が実践できる七つの徳行があります。三宝に不動の信を持ち、生命を決して傷つけず、布施を実践し、教えを学び、小欲知足で満足し、謙虚に誠実に智慧を育むこと。この徳行の果実はすさまじく、近い将来の涅槃証悟か、世間福を望むなら、大いなる財と地位…

この瞬間だけ嫉妬を抑えれば幸せになれる、慢心を抑えれば目標に到達できる、瞋(怒り)を無瞋(慈愛)に昇華させれば平和が実現する、そんな時に限って自我が頭をもたげ、未来を破壊してしまうのが私達の弱さと悲しさです。「幸せになれない自分」を卒業する!…

自らを縛りつけ収縮させるものではなく、結び目をほどき解き放ってくれるものと共に生きた方が、いいに決まっています。スマホに意識を吸い込ませず、あなた自身の入出息を楽しんで下さい。なんという瑞々しさでしょう!ほんの一瞬の、勇気ある心の舵取りは…

瞑想で何かを摑もうとしている限り、仏教の本懐に到ることはできません。生滅する現象をあるがままに観ても、私達の手には何も残りません。観智の喜悦は一心刹那で消滅し、無常・苦・無我は私達を冷たく拒絶します。涅槃への遙かな旅路に思いを馳せつつ、も…

ちっちゃな意地悪はやめましょう。特に自分の言動の責任を回避する、匿名の意地悪はいけません。その気軽な悪意の集積は、ひとを鋭い刃物で傷つけてしまいます。代わりに匿名でもいいから、ちっちゃな親切をいっぱいしましょう。それはあなたも相手も幸せに…

輪廻の世界には四種の命があります。光から更なる大光明へ昇っていく命。暗闇から光に昇っていく命。光から暗闇に堕ちていく命。暗闇から更なる暗闇へ堕ちていく命。今生の命が尽きる時、業は有無を言わさず私達に転生先を突きつけます。故に生きる技術と死…

私達の敵は、私達に害意を抱く人々ではありません。本当の敵は、私達の心のひだに一瞬現れる、もの惜しみ、ずる賢さ、策略、執着、怠惰、うぬぼれ、憎悪、嫉妬、学識・若さ・財力・権力を誇る傲慢さです。これらの怨敵を心から駆逐し、慈しみ溢れる謙虚な利…

あなたを批判する人がいるかもしれません。敵意を持ち、おとしめ、追求し、地位と財産を奪い、人間関係を壊し、社会から抹殺しようとするかもしれません。でもあなたには三宝がついているのだから、同じ土俵で戦う必要はありません。敵意を抱かず慈愛を持っ…

仏教では「忍」は苦しみに耐えることではありません。怒りや貪りでざわつく心を鎮め、最善の条件が揃う時を静かに待つことを意味します。それは自らが智慧で選び取る選択であり、怒りや貪りの生ずる機会を与えぬ徳行の実践です。自ら選び喜んで待つ。それが…

毎春咲き誇る吉野の山桜の枝を切っても、内に来春の花の兆しを見出すことはできません。私達は業の働きを外面的に知ることはできません。業の矢は人知れず飛翔し、業果を結ぶ環境が調うのをじっと待ち、条件が揃ったとみるや、何の前触れもなく突然、静寂の…

引き寄せて 結べば柴の庵(いおり)にて、解くれば元の 野原なりけり。この世にある一切は、仮に結んだ柴の庵です。ほどけば元の野原に戻る。だから私達は三界に定住する家の無き者として、無常を心に刻み込むのです。一切は柴の庵に過ぎません。故に執着す…

「心路を窮(きわ)めて絶せんことを要す。」という言葉があります。たとえば泳げない人がドボンと水に投げ込まれ、万事休す!とバタバタしていると、ふとある瞬間から泳げるようになることがあります。同様に、自身の力で智慧を証悟するには、命を賭けた実…

仏教は教・行・証すなわち学び、実践し、証悟するという、三つの課程から成立しています。八正道の真髄は、器から器へ水を移すように、師から弟子へ、心を込めて受け渡されていかねばなりません。教えや理屈を超えた、実践と佇まいを通してしか体得できない…

我と他を分けると、苦しみが始まります。彼岸と此岸を分けると、行き先を見失います。これが我他彼此(がたぴし)の状態です。自他の間に境界線を引いて優劣を争うことは、娑婆世界の特徴です。我執を滅し無我に住し、中道を知って二辺を離れることが、絶対平…

仏教で私達が最初に学ぶべき大切なこと、それは瞋(じん、Dosa)という煩悩の抑制です。怒り、不快、不安、嫉妬、害意、物惜しみ、悲しみ、絶望、後悔など、「~を受け入れたくない」という衝動は全て瞋から生じます。瞋で語らず、瞋で行わず。そう固く決心…

業とは怖ろしいものです。貪りによる過去の不善業は、食べるにも事欠く困窮を招きます。故に釈尊は「貧しき時は惜しまずに布施せよ」と説かれました。傘地蔵の爺様は、「苦しい中から分け与える」徳で困窮から一転富貴を得ました。この逆説的真理を理解せず…

感謝や有り難さを感じた時、恥じいる程の謙虚さと共に、心が法悦に満たされ、思わず手を合わせてしまう、そんな経験はありませんか。その瞬間に生起した清らかな心が、善なる心(クサラ・チッタ)です。ずっとその心と共にいたい、そう思いませんか。故に私…

私は日本仏教を本当に誇りに思います。南都六宗は六世紀にアビダルマや中観を依経とし、叡山には最高の行があり、空海は九世紀初頭に三相・十二縁起・三十七菩提分法等、原始仏教の根幹の法を詳説されました。ビルマやタイの仏教は十二世紀に始まります。仏…

私は法話の中でよくジョギングを推奨します。みんなは笑うのですが私は本気です。或る種の歩行禅とマラソンは非常に似ています。比叡山北嶺を不動真言を唱えながら歩く行者も、息に専注しながらランナーズハイで走るマラソン走者も、自身から最高のものを導…

道心の中に衣食あり。 真摯に菩提を求める心があれば、最低限の衣食は整うものだとされています。仏様がなんとかしてくれるのです。衣食の中に道心なし。逆に、衣食を安定させてから道を求めようとすると、いつまでたっても所期の安定が得られず、道を求め始…

「富士の山ほどお札を積んで利息でお布施がしてみたい」という都々逸があります。布施は喜びであり、苦しみでもあります。布施とは報恩感謝の実践であると共に、輪廻の根本因である渇愛を、少しずつ取り除いていく作業でもあるからです。故に苦しい中から布…

老により力を失い、記憶を失い、混乱し動揺し、持ちこたえられず、変転は避けられず、脆弱となって、財や人望を失うとしても、智慧ある者の心は高揚しているでしょう。環境や条件がどう変わろうと、善行を積み、善心を生起させることが、彼に最善の転生をも…

如何なる艱難辛苦が訪れても、三宝を無条件に愛していれば、清く正しく生きていけるのです。仏様を信じる心が真実ならば、何も心配はいりません。嬉しい時、悲しい時、虚心に手を合わせられる強い信仰を持つことが、私達の心をどれほど強く明るくしてくれる…

ヒマワリはつぼみのうちは太陽を追い求め、花が開くと一定の方向に留まります。同様に、如来が生きておられる時はその御許で修行し、大般涅槃の後は、ブッダ・ダンマをしっかり学んだ金剛弟子である自己を信じ、ダンマを拠り所として修行していくのです。そ…