2019-01-01から1年間の記事一覧

セイロン色の仏教、ビルマ色の仏教、タイ色の仏教、みな異教独特の悪臭を放っています。日本の自然や人々が育んだ文明には、不可侵の力が宿り、いにしえの釈尊の仏教との、幽玄なる合一の時を待っています。この地に相応しい清廉で高潔な、品格ある様式で、…

日々修行を継続することが如何に大切か、言葉で語り尽くせません。遅々として進まぬように見えても、目に見えぬ何かが心に確実に蓄積されていくのです。或る朝、機が熟すと、心は外を拒み、内に向くようになります。その時、心の望むがままにすること。後は…

輪廻の現実は移ろいゆく苦しみの連続です。もしそう見えないのなら、私達は世界を十分に深く洞察していないのです。お釈迦様の慈悲は、凍てつく北海の暗闇に昇る夜明けの太陽です。心に生ずる清らかな信が、突き刺さる不善の霜柱を溶かしていきます。信を受…

現代の大寺派仏教では実践されていませんが、原始仏教では顛倒見を砕破する為に、無常想、苦想、無我想の三つの観行を、必ず修習していました。四聖諦を看破する心路過程に入る上で、必須となる随観です。これらは避けて通れぬ最重要なダンマなので、できる…

最適化された行動とは何か?完全なプランを作り、十分なシュミレーションをし、状況の変化に応じた、様々な付随プランを想定した上で、天人地の機を得た時に、一気に行う行動をいいます。敏速さと正確さ、的確な状況判断が必須です。決して途中で迷わぬこと…

自分の立場、行動、実力に不安があれば、あらゆる行為に否定的感情が忍び寄り、せっかくの意図を汚し可能性を潰します。故に私達は何をやるにせよ、一点の曇りもない晴れ晴れとした、自信と希望に満ちた心を持たねばなりません。明るく肯定的な心は強さです…

素晴らしい言葉を三つ紹介します。人の悪口は絶対に言うな、人にしてあげた事はすぐに忘れろ、人にしてもらった事は絶対に忘れるな。(石原裕次郎)行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし。(酒井阿闍梨)努力は必ず報われる。若し報われないのなら、そ…

永年仏教を修行してきて実感することは、「謦咳(けいがい)に接する」、すなわち尊敬する師から、直接おしえを受けることなしに、本当のことは知りえないのだ、ということです。文字では決して伝わらない師の開示されるDhammaの霊的な佇まいこそが、本当の…

結局、仏教修行とは教・行・証につきるわけです。世間法では、これらは学び・実践・証悟として、順番に修されるべきものですが、出世間法では、三つは一体となり同時にそこに顕現しています。ちょうど出世間法で、仏・法・僧や正語・正業・正命が、区別なく…

伝統の維持には二つの方向があります。大義を護り、人々にとっての本来の価値と意味を保とうとすれば、時代の変遷に従って、その外観や表象法は変化せざるをえません。逆に時代の変化を考慮せず、その外観だけを維持しようとすれば、大義は変容し、その価値…

Vitakka(尋)の論理の組み立てや思考は、電光石火のように高速です。一方、言語作用はあまりに遅く、コミュニケーションには使えても、論理思考の手段には適しません。尋が瞬時に立てた筋道に言語を当てはめていくのは、非常に退屈な作業です。言語表現はい…

目覚めから就寝まで如何なる瞬間も、八正道の道を歩み続けることを、忘れてはなりません。今この瞬間の身口意が、八正道の大義から外れているなら、すぐ止めて引き返し、やり直す。今置かれた環境で最善最適の一歩を踏みだし、心に一滴の毒をも受け入れない…

私達の住むべき家は、今この瞬間ですか?それとも、私達が仮に身を置いている、娑婆世界ですか? 娑婆の顛倒を離れ、今この瞬間に心を専注させ、涅槃に向かう道を歩みますか?それとも、今この瞬間を見過ごし、思考と娑婆の現実に耽溺し、今まで通り永遠に続…

心が打ちひしがれている時、誰もあなたに手を差し伸べません。心奥に沈澱した怒りは、弱さや悲観的性情として、言葉や行動の端々に表出します。それらは不善業となり、同じ感情を喚起する経験として、再び私達に襲いかかってくるのです。この悪循環を止める…

類い希なる仏縁を得ることは、選ばれた仏教者としての義務を負うことです。気高き志を辱めんとする野放図なキレサを、正念で制御する必要があります。お釈迦様だったらどうされるか、サーリプッタ長老だったらどうされるか、常に想像しながら、仏弟子たる矜…

苦労して欲を離れても、自我への執着が残っていれば、何も所有していない自我が残り、苦しみます。逆に、自我への執着を手放せば、欲する当体を離れるのですから、離欲に苦しむ必要はありません。この世のあらゆる富は、私達の所有物ではないけれど、必要に…

修行者を破壊する三つの嫉妬があります。他の修行者の知識や証悟への嫉妬。他の修行者が師から得る注目への嫉妬。師に対する嫉妬。各々の嫉妬は、相手の方が優れている、相手と自分が同等である、自分の方が優れている、という三種の慢心を条件として生起し…

信じるに値するとの判断から本当の信が生ずることはありません。気づきも心の統一も智慧も、思考や論理から生ずることはありません。これらは思考を超えた直接知覚であり、知覚が生起する時、思考は沈黙するのです。逆に信・気づき・禅定・智慧が現起すれば…

「私らしさ・私のやり方・私の個性」これら耳に心地よい言葉の本性はキレサです。清らかな井戸にたらした一滴の猛毒のように、心を汚染します。この猛毒が精神的成長をどれほど阻害してきたことか。故に古今東西を問わず、求道者は、「私ではない、あなたで…

では菩提心はどのように発芽するのでしょうか?常住・常楽を夢想する先入見で固まった土から、菩提心が発芽することはありません。「世の無常やそこに内在する苦に対する無力を、しみじみと実感し随念する」という鋤(すき)で、柔らかく耕された土壌からこ…

仏教は発菩提心から始まります。突然、菩提を求める心が発芽し、まばゆい信の光を身体いっぱいに浴びるのです。スイッチがパチッとはいり、価値観のチャンネルがカチャッと回り、私達の心は浄化され、あらん限りの善意が沸き上がってきます。私達の心の中で…

無常は逃げ場のない戦慄すべき現実ですが、それを看破する心に、如何なる怖れも嫌悪も生じません。無常を看破する当体は「私」ではなく、意識の連続体に生起する正念正知です。正念正知がいまこの刹那のダンマを、あるがままに看破する時、そこには山頂の霊…

無礙解智は漏盡智を因として生じ、漏盡智は道智を因として生じ、道智は如実智見を因として生じ、如実智見は観智を因として生じ、観智は禅定を因として生じ、禅定は多聞を因として生じ、多聞は善行を因として生じ、善行は信を因として生じます。信と善行が仏…

修行は時々刻々変わっていく自分との二人三脚です。いきなり瞑想では変われません。先ず信と善行から始めるのです。あなたの信でお釈迦様の光を拡げるのです。たった一人の善男善女の仏縁を結ばせていただくだけで、どれほどの喜びと波羅蜜で祝福されること…

禅定を知るとは、名色が極微強剛となる異次元の境界を知ることに他なりません。禅定は語りえぬものであり、実体験をとおしてしか知ることはできません。いわんや、ニッバーナをや。巷に溢れる禅定の体験談に、耳を貸すべきではありません。禅定を持つ者は、…

心から菩提を求める方々に、仏の教えを惜しみなく分け与えること。修行完成の為に生まれてきた仏の息子達や、仏の息子になる事を三宝に誓う仏教者達に、分析的智慧の基盤となる智識と定力を、握拳なく伝法すること。それが師の役目です。修行への決定心を師…

語り得ぬことについては沈黙すべきです。知り得ぬことについても沈黙すべきです。判断の根拠が無いことについても沈黙すべきです。たとえ真実であっても語ることが不適切な場合は、沈黙すべきです。故に釈尊は説きます。「ダンマだけを語れ。優しき言葉で語…

東南アジアの大寺派仏教寺院で、仏像の光背として飾られた、キラキラ点滅するクリスマスのような電飾を見る時、伝統や様式の大切さをしみじみと思います。叡山や高野山の内陣のなんと清らかで美しいことか。あのひんやりとした一点の汚れもない空気。日本に…

中部経典安般念経に、「安般念は修習・復習され、大いなる果報・功徳を得る。安般念は修習・復習され、四念処を証す。四念処は修習・復習され、七覚支を証す。七覚支は修習・復習され、明と解脱を証す。」とあります。わが道は正道なり!ダンマへの不動の確…

利益は人を利することから得られます。人を豊かにすれば、自分も豊かになるのです。人を幸せにすれば、自分も幸せになれるのです。人から奪い取って豊かになっても、いつ奪い取られるか知れず、不安が付きまとうものです。商売でも、人間関係でも、この明白…