「私」という誤った見解がなければ、
渇愛の対象に対する、
「私のもの」という感覚も生じません。
もし「私のもの」という思いが心に生起するなら、
「私」という謬見がそこに存在しているのです。
「私」を根絶しても、渇愛は残りますが、
顛倒見から生ずる「私のもの!」という執着はなくなります。