2019-01-01から1年間の記事一覧

人々は天界への再生を希求します。美しい容姿、無限の豊かさ、喜び、平安。永遠と見まがう程の寿命。天神は至福を生き、無常・苦・無我に心を向けません。しかし遂に死は訪れ、彼は三相に戦慄し、悲嘆に暮れ、泣き叫ぶのです。この理を観る賢者は、天界への…

避けられぬ問題があるなら、事実を認め、受け入れる事から始めましょう。認める事を拒んでいる限り、問題は解決しません。私達の苦の根源は、心に秘めた瞋恚です。怒りは怒りによって収まる事はありません。嫉妬、不安、恐怖もまた同じです。健全な心だけが…

信は確立されるべし。自らの信念を毎日何度でも肯定してください。目標は実現されるべし。自らの誓願を毎日何度でも宣誓してください。修行は実践されるべし。やるべき修行を毎日繰り返し修習してください。信があり、不動の誓願があり、日々の修習があれば…

止行とは四禅定の証悟であり、観行とは名色の生滅に内在する、無常性・苦性・無我性の看破です。これらは二つの別の道ではなく、二行は分かち難く相互依存し、四念処という一道を構成しています。観なくして止なし。止なくして観なし。釈尊が二つの別の解脱…

中観も唯識も密教も、禅も法華も浄土も、各々ダンマの一側面を示し、孤高の境地を体現しています。天台智顗や仏音、文献学や最新の考古学をもってしても、真の仏説までさかのぼれない以上、各伝統を先入見なく参照し、智慧と実践の検証によって、涅槃への古…

布施は囚われることなき、清らかな心で為さなければなりません。名を明かさぬ陰徳が尊いのではなく、求道者は記名、匿名に関わらず、「果報に囚われることなく布施する」ことを、旨としなければなりません。法施の場合も、ひとを導くとの意図をもってすれば…

燃え上がる菩提心で行う布施は、波羅蜜の源泉です。布施する者、布施を受ける三宝、そして布施される浄財。これら三つが清らかである時、布施する者に最上の福徳がもたらされます。また布施された浄財は、仏陀ダンマを永くこの世に留めるために最高の仕事を…

今日あなたは他の方々の福祉の為に、何をしましたか?自利が一番と思っている方も、まずは利他行による福徳を積んで下さい。他の方々の為に身を粉にし、無心に奉仕する喜びを知らずして、何の仏教でしょう?これ以上できないところまでやり尽くし、三宝の祝…

無常性は、平穏な日々に隠された戦慄すべき現実です。命あるものも、ないものも、眼にする一切の現象は、原因の故に一時的に表象しているに過ぎません。一時的に表象しているものは、時々刻々変化することを免れず、条件が尽きれば消滅します。その理(こと…

「世の中に 我がものとては 勿かりけり身をさえ土に 返すべければ」「私」に執着すればするほど、最後は身がすくむような苦の深淵に堕ちていきます。この世の無常性から逃れるすべはありません。輪廻に内在するこの耐えがたい苦を、あるがままに認識すること…

幸せになるために実践すべき三つのこと。1) 17種の善心と12種の不善心を知る。2) いま自らに生起している心が善心か不善心かに気づく。3) 善心から生ずる意志と思考を受入れ、 不善心から生ずる意志と思考を断固拒否する。これだけで祝福に溢れた最高の人生…

輪廻の実相を知れば知るほど、修行道を歩めば歩むほど、仏教の素晴らしさへの感動が、深まっていきます。娑婆世界はわら草。八正道は光り輝く道。無明に覆われた眼を開けば、喜びと希望に溢れた、苦の滅尽に至るお釈迦様の道が現前に現れます。さあ、手を取…

分別の習気(じっけ)というものがあります。ちょうど幾何の証明が解けずに何度も同じ思考経路をたどり、繰り返し同じ迷路に迷い込むように、無明の習気に囚われた分別は、正しい判断を下すことができません。いかに正しい論理を組んでも、個々の定義が誤っ…

善なるものを求めて上方に伸びていく、アスピレーションの大樹を、私達の心の中心に植えましょう。仏教修行はもちろんのこと、周りの人々を幸せにしながら、世のあらゆる富貴を、円満に成就できるように!どんな道でも成功するためには、桁違いに度量の大き…

世間は思い通りにならないことばかりです。いちいち腹を立てても、自ら傷つき損をするだけで、何も改善しません。今日から世の中の浮沈を天気だと思いましょう。晴れなら晴れなりに、雨なら雨なりに、暑ければ暑いなりに、寒ければ寒いなりに、対処すればい…

どの道においても、華やかな成功の裏には、血の出るような稽古の蓄積があります。ひとに見せるものではありませんが、一にも稽古、二にも稽古、三にも稽古の一道があるのです。熱烈な情熱で黙々と練習を続ける。完成しても満足せず、さらに練りに練る。そう…

長い人生では、外的に、或いは内的に、不可避な妨害が生じ、修行困難な状況に陥ることがあります。そんな時、修行の手綱を緩めて、善い結果に至った例を知りません。むしろ、あらん限りの力を込めて、剛速球を投げつけてみる。その腹をくくった気迫が、弱さ…

お釈迦様は説かれます。「実に苦のみが生起し、止住し、消滅する。苦の他には何も生起せず、消滅しない。(相応部5-10)」生はまさに謬見によってのみ、耐え得るものに見え、謬見の美によって是認され、謬見の故に輪廻が継続されます。謬見が改められれば、突…

あなたの身体も、あなたの心も、感受作用も、判断も、思考も、すべてが一瞬一瞬生まれ変わっていきます。そこに変化せずに継続していく実体はありません。何という祝福でしょう!絶え間なく続く変化こそ、世界の実相です。あなたは変わることができます。さ…

例えどれだけの時間がかかろうと、例えどれだけの障害が行く手を阻もうと、何も心配はありません。菩提を求めるあなたの真摯な心は、今生を終える前に、必ず真のダンマに出会うことができます。そこに到るまでの幾多の迂回、様々な善不善の経験は、必ずやダ…

因に依存して生じ、生起の瞬間から消滅の瞬間まで、様々な条件の変化によって、その姿を変えつつ表象を続ける現象は、実在(実体ある存在)とはいえません。実在とは条件によって左右されない、無始・無終・無変・無我の存在だけを指します。それは仏教にお…

過去も未来も概念の中にしか存在しません。真実相は今この瞬間にだけあるのです。それに気づく時、その事実の力強さに圧倒されます!「ああ、一切はこの瞬間なのだ!」その刹那、目にするすべてがきらめき始め、心に法悦が生じます。「今この瞬間」と共にあ…

言葉は本来曖昧なものですから、杓子定規な規則で組織をまとめることには、もともと無理があります。そこで「絶妙なさじ加減」が、重要な潤滑油となるのです。慈悲深く老練な比丘は、言葉の定義が生む不完全性を、パテ埋めし、滑らかにし、善意の香りをふり…

心が怒りや嫉妬に席巻されつつも、表面的に穏やかな言葉や行動を保つことは、深刻な不善業の連鎖を回避する為に、常に大切にしたい心構えです。しかしそれでも、怒りや嫉妬にさいなまれた心は、非常に暴力的な心であることに変わりはありません。その刃は無…

ものや概念の名前を知っているだけで、知っていると言っていませんか。辞書に載っている数行の定義を知っているだけで、知っていると言っていませんか。私はそれを知りません、という言葉には、解脱の香りがします。深く知らないのに知っていると言うと、苦…

この心も、この身体も、刹那的に生起消滅する現象の連続体として、今仮に表象しているに過ぎません。蜃気楼のように、ガンジス河の水面のアブクのように、その表象はあまりに希薄で、基盤がなく、もちこたえる事ができません。故に連続体の流れは程なく消滅…

もしあなたが、自分が救われることが最優先だとか、他人のことより自分の修行が大切であると、ほんの一瞬でも思うことがあるなら、すぐにその心ぐせを捨て去り断じなければなりません。なぜなら、そのような思いを持ちつつ救われた人も、修行が大成した人も…

6年294回に亘る日曜のアビダンマ講義と、2年に亘る水曜瞑想会の無礙解道の伝法により、傳修院の修行者は類い希なるYogiに育っています。先月開始した四念処の伝法では、パーリ聖典と阿含経典群を先ず暗記し、その上で詳細に分析し、釈尊が説いたであろう念処…

自然の中で瞑想していると、心が静寂になるに連れ、動物や虫たちの反応が変化してきます。彼らは友好的に接近してくるか、私がまるで存在しないかのように振る舞い始めます。禅定中の私は、周りの樹木と何ら変わらないのでしょう。禅定が一瞬途切れると、虫…

私達の意識の高さは時々刻々変化しています。一切の有情の幸せを願い、片時もダンマから離れたくないと、燃え上がる菩提心が泣き叫んでいる時、心は仏の聖なる領域にあります。逆に、例えそれがダンマに関する事であれ、世俗的衝動で刺激を求めている時、心…