2018-01-01から1年間の記事一覧

心の連続体には始まりも終りもなく、 般涅槃までその流れは止まりません。 今この瞬間の心は一心刹那前の心が直接因となって生起します。 生起消滅する心の連続体を遡れば、 受胎の瞬間の心に、 更には前生の死の瞬間の心に至ります。 この識別を可能にする…

無始から続く輪廻の中で、 すべての衆生はかつて、 一度は自分の父母であったとみる観法があります。 彼等から受けた無量の恩に報いたいと発願し、 無条件の慈心が生じます。 彼等の苦しみを除き安楽を与えたいとの決意が生じます。 一切衆生の救済を願う菩…

日々の修行によって、 私達はどのくらい心を制御できるようになったでしょうか? 何時間も思考を生起させず、 寂静を楽しんでいられますか? 心は移ろうことなしに対象に留まっていますか? 自らに不利益をもたらす不如理作意を、 生起した瞬間に切り捨てら…

ゆっくりと、微かに、 言葉少なく、 深く随念してください。 私たちに必要なのはイメージや推論ではなく、 直接知覚です。 さあ、直接知覚だけを求めて、 深く深く、 精妙な意識に入っていってください。

それ自体以外の何ものにも依存せず、 自ら自然に再生する現象は存在しません。 一切の現象は、 過去現在未来の多くの条件に支えられ、制御され、 相互依存し合って生起消滅していきます。 お釈迦様はこの道理を、Dependent co-arising、 「相互依存して生起…

蚊に刺された部位を搔けば、一瞬快い刺激が走ります。 しかしやがてそれは、更なる苦の因となります。 刺されないほうが、身体はずっと安楽です。 世間の感覚的対象を貪れば、快楽が心を席巻します。 しかしやがてそれは、更なる苦の因となります。 貪りの対…

自分が知っていると思っていたものが、 まったく間違っていたことを悟る時、 私達は愕然とします。 私達の中の様々なもの、 価値体系や慢心が、 音を立てて崩壊するのです。 本当の原始仏教の修行では、 それが頻繁におこります。

誓願をしっかりと心に念じながら、 善行をおこなってください。 善行が繰り出す福徳の力、 誓願が繰り出す波羅蜜の力は、 まさに圧倒的です。 私達が為すべきは、 心を込めて善行することだけ。 あとはすべてをダンマに任せてしまいましょう。 どんな誓願で…

有愛とは存在への渇愛です。 有情はサンサーラで生きることに執着しています。 サンサーラを生きることが好きだからではなく、 有形無形の対象に執着することで得られる刺激に惹かれるのです。 故に存在することに執着し、 嬉しいにつけ、悲しいにつけ、 「…

本物の修行者は、 我を忘れて修行に熱中しますから、 自分が修行している事を忘れています。 彼にとって修行とは、 忘我のエクスタシーを生きる事に他ならず、 陽転したVīriyaに突き上げられ、 彼は呼吸をするように自己改善に努めるのです。 どのような道で…

「花に魅される蝶のように人の善き点を見よ。 人の欠点を見て汚物に群がるハエのようになるな」 他人の批判やゴシップは、自己完成に有害です。 あらゆる人には長所と短所があります。 他人の美点と自分に欠けている点に注目しましょう。 他人の欠点と自分の…

娑婆世界のあらゆる事象は、 ローカダンマです。 その本質は無常であり、苦であり、無我であり、 すべてはアブクのように実体が無く、 すぐに消え去ってしまいます。 その理をあるがままに観て、 「諸行は幻のごとし」と悟る心は、 無明と渇愛を根絶し、 輪…

大慈大悲の心とは、要約すれば、 自分が受け取るべきすべての幸せや利益を、 一切の生きとし生ける衆生に捧げようと、 秘かに決意すること。 そして、 一切の生きとし生ける衆生が受けるべき、 すべての不幸や苦しみを、 彼等の代わりに自分に引き受けさせて…

修行者にとって、 サンサーラで出会うすべての事象は、 ダンマの先生です。 たとえば、 無条件の愛を捧げて尽してきた相手に、 ひどく傷つけられたとしても、 決して恨むことはせず、 今生における無上の師として、 感謝の心で接することができるような、 そ…

嫉妬され、誤解され、 批判され、誹謗され、中傷され、 いかに理不尽に扱われようとも、 すべては自らが過去の生存で為した不善業の結果です。 私は沈黙をもって謙虚に過去の果実を受け入れ、 喜んで敗北を引き受けましょう。 役割を演じてくれた人達に、 慈…

不安や嫉妬で苦しんでいる人達、 不善意図に囚われた人達、 「私」を手放せない人達、 ダンマを受け入れられない人達。 みな無明の被害者です。 彼等に相い対する時、 自らもまた同じ無明に苦しむ者として、 無条件の大慈大悲で接することができるか。 祝福…

自らの心の連続体が流れていく様子を、 あるがままに見ていきましょう。 あなた自身を危険にさらす煩悩が生起する瞬間。 他人を傷つける煩悩が生起する瞬間。 どうかその瞬間を見逃すことのないように。 どうかその煩悩を増殖させることのないように。

誠実さと謙虚さは優れた修行者に共通する特質です。 現代では誠実な心を持つ修行者はとても少なく、 真の謙虚さを持つ方は稀になりました。 目の前の相手が誰であろうと、 自分をより未熟な者と捉え、 相手の良い面だけを見て賞賛し、 心から敬うことができ…

小さな虫であれ動物であれ、 一切有情は本当に尊いかけがえのない存在です。 母が独り子を護るように、 私達は一切有情の守護者になりたいと心から希求します。 その為に、 最高の悟りの境地である涅槃を目指して修行することを誓願し、 どんな時でも無条件…

怒りはモグラ叩きのように、 際限なく敵を作り続けます。 怒る対象は何でもいいのです。 一生をかけて叩き続けたところで、 あなたはモグラを一掃できません。 どうしたらこの悪循環から抜け出せるでしょうか? パッとコンセントを抜いて立ち去ること。 その…

輪廻の無明の中で、 感覚的刺激を貪る煩悩は、 おき火のように消えることがありません。 飽くことなく快を求める肉体は、 満たされることはありません。 そんな時、 ダンマのひとしずくで私達は目覚めます。 わが菩提心は解脱を求めて立ち上がり、 「最後の…

顛倒した自我はサンサーラの中に、 自らが存在した痕跡を残そうとします。 しかしその記録は波打ち際の砂に書いた文字のように、 次の波でかき消されるでしょう。 サンサーラはあなたの事など一切記憶しません。 あなたの永遠の住まいは涅槃です。 さあ、一…

一切の行為を含む生活全体が仏法僧に捧げられている生き方があります。 もし心が一瞬でも仏法僧への専注から離れると、 強烈な悲しみを感じる一途な渇仰心があります。 お釈迦様への思いが一瞬でも薄れると、 悲しくて寂しくて、 泣き叫びながら三宝に飛び込…

断見は無常の前で断じられ、 自己矛盾を露呈します。 同様に、 我見は涅槃の前で、 思考はダンマの前で断じられ、 その意味を失います。

「虚言を離れよ」とは、 「正直にすべてを話しなさい」という意味ではなく、 虚言によって自ら利益を得たり他人を陥れてはならない、 というのが本義です。 お釈迦様ご自身は、 沈黙を守られることが多かったと伝えられます。 私達は何を語るべきか語るべき…

中捨。 中捨は第四禅でようやくその姿を現し始め、 サティを清浄化します。 では中捨が本当に活性化し陽転したらどうなるか? 善と不善の区別も、昼夜の区別も、 高い低いの区別も、前と後の区別も、 すべて消失し、 過去現在未来の一切が平等にそこにあるこ…

時に善なる行為が人を傷つけてしまうこともありますが、 そんな時カンマはとても慈悲深いものです。 行為者は心配の必要はありません。 為される側は不善語業に気をつけながら、 結果ではなく悪意のなさに感謝しましょう。 無論、悪意ある目的の為に人に利得…

新しい夜明けの光が見えたとき、 それがいかに輝かしいものでも、 受け入れることができず、 昨日に思いを馳せ、 昨夕の日没を追慕する、 そこに老いがあります。 過去は枯れ草であり、 死ぬ瞬間までNewnessに対して、 小児のようにわくわくできる心には、 …

勇気の欠如とはなんでしょうか? 或る状況を前にして、 自らが取るべき善なる言葉や善なる行為が、 光明を伴って内的に示された時、 自分に言い訳をして、 何もせずに世の不善の流れに身を任せてしまうこと。 それは恥ずべき選択であり、 不善業を形成する行…

仏教の目的は真理の探究ではなく、 苦の終焉です。 真理を探究しようとすればすぐに、 私達はすべてを知り得ない、 という事実に突き当たります。 その道理を本当に理解すれば、 私達の心は、絶対的静寂を得るのです。 苦の終焉はそこから始まります。