善行であれ不善行であれ、
それは楽しいだろうとの期待が生ずれば、
貪欲が生起し、人を輪廻に縛ります。
貪欲が今生と未来生にもたらす苦が、
心底に明確に刻まれれば、
楽しいという期待は萎えて、
生起消滅する一切は苦であるという
智慧が生じます。
人はこの視点の転換により涅槃に至るのです。

ひとは直感的に物質も身体も心も感情も、
継続的に存在していると捉えてしまいます。
これらの主体が存在するという見解、或いは
存在しないという見解を持っている限り、
苦から解放されることはありません。
聖者は存在と非存在の相互依存の縁起関係を
完全に了知するが故に苦から解放されるのです。

疫病苦が長く続くと、
世界のあちこちで不満が爆発します。
こんな時私達は、
優先順位を明確に知っておく必要があります。
何をおいても人の命を守ること、
そして最低限度の生活を支援してあげることが、
最優先です。
その上でマクロ経済の回復を考えていく。
この順番を決して崩してはなりません。

根(indriya)とは力の源泉です。
人を輪廻の生存に縛る根は、
女・男・命の三根、
眼耳鼻舌身意の六根、及び
楽苦喜憂拾の五受根の計14根です。
輪廻から出世間へ脱出する力の源泉は、
信・精進・念・定・慧の五根です。
預流に入り阿羅漢果に至る為には、
未知當知・已知・具知の三無漏根が必要です。

怒りや嫉妬や物惜しみの心をもって
人の話を聞こうとしても、
私達は何も聞くことはできません。
心の受容力がゼロになっているので、
語られる言葉の端々を切り取って、
反論する材料にすることしかできません。
私達は瞋恚をもって人と話してはならず、
また瞋恚をもった人と議論してはなりません。

持って生まれた優れた資質は、
解脱の為の諸刃の剣です。
その資質を活性化し、
大きな推進力に昇華させることは、
もちろん重要ですが、
それ以上に、その資質を持つが故に
生じやすい貪や慢心が、
自らの解脱を阻む最大の障害となりうることを
見逃してはなりません。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。

翌朝には荷物を持って
宿を出ていく旅人の様に生きる。
それが出家者です。
この輪廻の生存は
うたかたの宿に過ぎません。
自分の物は何もなく、
定住する場所もありません。
いつでも跡を濁さずに
飛び立てるよう、
荷物を詰めたまま一眠りする。
この世にそれ以上の意味を
見出す必要はありません。

ダンマは誰の専有物でもありません。
私達が存在していようがいまいが、
一切の内にあるがままに
遍満しています。
ちょうど雨の中でコップを差し出すと、
中に雨水が自然にたまっていくように、
私達の心が禅定に達すると、
サイズに応じて受け取れるだけのダンマが
自然に心に飛び込んでくるのです。

八正道とは即ち、
戒定慧の増上三学です。
戒とは「不善を恐れ、
その些細な兆候をも監視し、
不善生起を決して許さない」ことであり、
レンズの焦点を合わせるように、
心のピントを合わせてくれるのです。
フォーカスが完全に合ったとき、
心はそのまま自動的に、
スーっと禅定に入ってしまいます。

私達は人生で遭遇するあらゆる人や物や状況を、
見たいように見、聞きたいように聞き、
感じたいように感じ、評価したいように評価し、
それらの幻想に対して、
貪りや怒りや無明を燃やし続けます。
私達が信じているものは
「本当はそうではない何か」です。
この認識は改められなくてはなりません。

不快感、嫌悪感、怒り、嫉妬を感受する時、
表面的な原因を外部にもとめ、
他人に害意を抱くのは、
心が非常に幼稚な段階にある証拠です。
五門に生起する現象に対する知覚は、
自らの過去の業の結果です。
すべての因は我にあり。
この理法は仏教の基本です。
骨の髄まで叩き込まなければなりません。

生まれ、生まれ、死んで、死んで、
心の連続体は徐々に成熟していきます。
メリーゴーラウンドに乗る心、乗らない心、
世の価値観に依存する心、背を向ける心。
心は成熟度によって様々な選択をします。
人生の最後に智慧で無常・苦・無我と向き合える心は、
解脱が間近いことを如実に示しています。

安般念を修習し完成させる為に必要な五つの法があります。
1)僅かな不善を為す事も恐れ、常に善行を為すこと。
2)煩瑣な雑事を避け、少欲知足と質素な生活を旨とすること。
3)食の質を貪らず、少食に徹すること。
4)睡眠を貪らず、瞑想行に精勤すること。
5)諸々の喧噪を離れ、静かに住すること。

山のように情報を集めても、
何も学ぶことはできません。
良質な教科書を熟読し、
選りすぐった事例を参照し、
暗記すべきを暗記し、
随念すべきを随念し、
知識の骨格を自らに
構築していくことこそが学びです。
故にいつの世であっても、
何を学ぶにしても、
最高の師の指導がどうしても必要です。

輪廻の世界にあって、
あなたは何を求めていますか?
Kāma(愛欲)ですか?
Attha(利益)ですか?
それともDhamma(法)ですか?
何を求めるにせよ、
決して人を傷つけず、
慈心を前面に打ち出しつつ、
求めて下さい。
そうすればやがてあなたの心は熟し、
Mokkha(解脱)だけを
希求するようになるでしょう。