菩提心が確立されていなければ、
心を専注の対象に留め続けることはできません。
専注していない心に精進はありません。
精進のない心に修行から生ずる法悦はなく、
法悦のない心に禅定も観智も訪れません。
すべては謙虚で誠実な菩提心から始まります。
これは私達が心に刻むべき重要な修行原則です。

生の黄昏に至り、
やり直しの効かない
自らの重大な誤りに気づくことは、
人生最悪の悪夢です。
「気づくのが遅すぎた!」
利を追求して善を軽んじたり、
善行を善意で為さなかったり、
自分流の方法に固執して生きれば、
福徳は消滅し苦の生存が訪れます。
一刻も早く忘我の法悦に身を投じて下さい!

いくら修行に励んでいるつもりでも成長せず、
同じ処をグルグル廻り続ける人がいます。
彼は誤った船に乗っており、
航路を知らぬ船頭が、
誤った流れに入ろうとしているのです。
船とは轉倒した見解、船頭とは自意識です。
正師のもとで正法をいくら学んでも、
結局彼は何も学ぶことができません。

健全で明晰な意識を臨終の瞬間まで維持し、
涅槃に至る修行を少しでも長く支える為に、
お釈迦様は四資具、即ち、
衣・食・住・薬の使用を定められました。
忌避せず、耽溺せず、
苦痛を除去し意識を明晰に保つ為に、
衣・食・住・薬を賢く用いること、
お釈迦様はそのように弟子達に指示されました。

他人の信仰心を意図的に破壊する事は、
想像を絶する不善行為です。
信仰を破壊されたその方が、
もしそのまま信を確立できずに死を迎え、
四悪趣に堕ちたとしたら?
盲亀の例えの如く五億年後の弥勒仏には
間に合わぬかも知れず、
その後の六十阿僧祇は仏の降誕はなく・・。
身震いする程の不善です!

私達はみな不完全です。
過ちに気づいたらその場で改め、
同じ間違いを繰り返さぬよう精進すればいいのです。
他人の過ちは大きな心で赦してあげて下さい。
そしていつも「お釈迦様だったらどうされるだろうか?」と、
随念しながら行動するのです。
そうすれば過ちを犯すことはほとんどなくなります。

有分心は異熟善心であるものの、
凡夫の速行に生ずる業心は、
ほとんどが不善です。
一方、成熟した仏教者の心には、
甘美な善心が絶え間なく生起しています。
その度に清らかな喜びの涙と、
身が縮む程の謙虚さが、
彼の心を席巻します。
平静を装っていますが、
心の中では法悦の涙を流しています。

人の命は無常です。
いつ何時にも死は訪れます。
死の速行に入ったあなたを、
誰も助けることはできません。
一生かけて築いた財や地位や家族が、
ついに目の前から消え去っていく時、
あなたはしみじみと悟るでしょう。
私を本当に支え救済してくれるのは、
菩提心と今生で為した善行だけなのだ!と。

国の恩、親の恩、三宝の恩、衆生の恩、
これら四恩を至心に随念して下さい。
一つ一つ、具体的な例を思い描いて、
生き生きと観想するのです。
そうすれば、そのどれもが、
正に圧倒的な恩だとわかるでしょう。
人は愚かさの故に恩知らずとなり、
智慧が熟せば熟すほど、
謙虚な人となっていくのです。

目上や目下、子供や友人に至るまで、
決して人の性質や人格、存在そのものを
否定する様な批判をしてはなりません。
個々の誤りを正すにとどめ、
お前は~だ、あの人は~だ、と決めつけてはいけません。
さもないとその人はやがて他人や社会に怯えながら、
怒りをまき散らして生きるようになります。

言葉は思考の概略を伝えるだけの、
不完全な伝達手段です。
心を震わせる音楽の感動は、
言葉で再現できません。
禅定の境地も涅槃の境地も、
言葉の表現を超えています。
言葉で表現されたものは「戯論」に過ぎぬ故に、
むしろ「不立文字(ふりゅうもんじ)、
文字を立てず」を、潔しとするのです。

人間に生まれ、仏教に出会い、
師より深淵なる教えを聞くことを得て、
修行方法の開示をも受ける ー
なんという稀なことでしょう!
この人生でそのすべてを得たならば、
今がその時です。次はありません。
何もかもかなぐり捨てて、
必死に精進する以外に、
この人生で為すべきことがあるでしょうか?

人間として生まれるのは実に稀な事です。
誰でも人間界に再生できると高を括っていると、
足をすくわれます。
日本代表に選ばれたサッカー選手が、
できる限りチームに貢献して、
万が一にも選抜から外されぬよう、
懸命に努力する様に、
私達も修行成就を目指して
必死に善行を尽くさねばなりません。

生の実相と死の実相を正しく知ることから、
仏教は始まります。
生死の繰り返しが輪廻、
その駆動力が善業と不善業、
善と不善からの解脱が涅槃です。
いまだ輪廻の中にあるも、
涅槃への道程を歩んでいる時、
私達の生死は厭う必要のないものとなります。
それが「輪廻即涅槃」と呼ばれるダンマです。