過去の行為は取り消せませんが、
それがもたらす業果の結実は環境に左右されます。
清らかな環境では善果が結実しやすく、
不善果は結実しにくくなります。
また不善の対象に善心で反応する為、
普段から信と智慧誓願と如理作意と定で
心を防護しているなら、
あなたは修行者として超一流と言えます。

あなたの声が届くのを待ち望んでいる人達がいます。
何もしないで切り捨てますか?
人と出会う門を閉ざせば楽になります。
でもその場合、どうやって人を助けるのですか?
自分が解脱する為には、人を助ける以外ありません。
それ無しで済ませる妙案でも見つけたのですか?
それとも解脱を諦めますか?

「継続は力なり」
これは二十四縁起でいう修習縁で、
昨日の学びと経験の上に、
今日の反復を積み重ね、
今日の学びと経験の上に、
明日の反復を重ねていくことです。
時代や環境から乖離することなく、
時の変化に敏感に反応しながら、
伝統を積み重ねることにより、
未来を生き抜く力が生まれます。

もしあなたが瞑想のエキスパートになりたいのなら、
数えきれぬ程のトライ&エラーを行う為の時間を、
あなた自身に与えて下さい。
とにかくたくさん失敗をすることです。
たくさん原因追及することです。
そうすれば、少しずつ上達していきます。
失敗を恐れている限り、
あなたに成長はありません。

もし誰かに攻撃さたとしても、
暴力は無論のこと、言葉による反撃もしてはなりません。
合法的に相手の人生を破壊するような、
卑劣な反撃もしてはなりません。
ダンマが許容するのは攻撃を思いとどまらせる為の威嚇だけです。
賢者は決して敵を追い詰めず、
尊厳ある退散法を確保してあげるものです。
終戦記念日によせて)

私達は身の回りの一切に対して、
膨大な渇愛を生起させ、
それらは我見と結びついて、
強固な執着に育っていきます。
ところが自らの過去の不善業の故に、
世のほとんどの事象は、
私達の期待に添うものとはならず、
結果的に私達の生存は、
苦に満ちたものとなるのです。
これが苦の原因、集諦です。

自分は昔、米国に一年間住んでいたので、
日常会話程度なら困らないと、
英会話の先生に強調したがる人がいます。
他人より先生のレベルに近いのだと知って欲しいのです。
この手の慢心は双方にとって実に不幸です。
先生と自分との高低差を認めぬことで、
自ら知識の水を流れにくくしてしまうのです。

渇愛に翻弄された私達は、
牛の排泄物に群がる銀蠅のようなもの。
我を忘れて狂喜乱舞し、貪りに酔いしれるも、
智慧が目覚めればそのおぞましさに
卒倒するでしょう。
いくら先延ばししたところで、
いつかは無明を根絶せねばなりません。
早いに超したことはありません。
今すぐ取りかかりましょう。

しばし戯論を脇に置いて、
無心に瞑想してみましょう。
ありとあらゆる言い訳や恨み言が、
みな色あせてわら草のようになっていき、
美しく清らかな思いがわき上がってきます。
静かに瞑目し思考を止めれば、
今のあなたにとって一番善いものが表象します。
偉大なる奇跡は、そのように始まるのです。

この歳になって、
もう徹夜をする体力は無いと諦観していましたが、
四ヶ月程前から週二回の徹夜が当たり前になりました。
伝法の内容を決め、講義を一本撮影し編集すると、
ちょうど一晩の徹夜になります。
ダンマを学ぶ方々の真摯な菩提心を思えば、
睡魔や疲労など、すぐに吹っ飛んでしまいます。

家族、友人、同僚と麗しい関係を構築したいなら、
あなたと共にいることで、その方が最高の自己肯定感を
感じられようにしてあげて下さい。
とにかく褒めてあげる。
過度の期待を押しつけない。
その方の性格・人格を批判したり、
プライベートを軽視しない。
これでその方の心を掴むことができます。

ダンマの視点からビジネスをみれば、
いかにより多くの利益を出すか、
という方向に進めば必ず失敗し、
いかによりよいものを、
より安く供給できるかを追及すれば、
利益は自然についてくる事が分かります。
やり繰りからくる苦痛で目前の利益に走らぬよう、
経営者には大局的視点と忍耐が必要です。

善因楽果、悪因苦果の理法は、
例外なきダンマです。
他人の害意に苦しみ、
不幸になった人も、
結局は過去に自分が蒔いた種を、
今刈り取っているに過ぎません。
自分を捕らえた刑事を恨む、
愚かな泥棒になってはいけません。
業の法則を随念すれば、
自らの不幸も心安らかに受け入れられるのです。

人から受けた恩を決して忘れず、
その恩に感謝し、報いようと努力する人は、
富貴円満の人となり、
死後、天界に転生すると言われます。
人から受けた恩を忘れ、背き、
恩を仇で返す人は、
死後、無間地獄に堕ちると言われます。
どんな小さなことでも、善意を頂いたら、
必ずまごころで報いましょう。

他の人の善き性質や徳に気づいたら、
素直に喜びを表し心から称讃して下さい。
それを仏教では随喜と呼びます。
素直に随喜すれば、やがてその性質や徳を、
自分もまた持つことができるようになるのです。
それが随喜念です。
最高の随喜念である仏法僧の三随念を、
日々唱える理由はそこにあります。