人間関係は良いにつけ悪いにつけ、

誤解、幻想、期待の上に成立しています。

観想に巧みな修行者は、

自身を相手の立場に置いて、

利害損得、執着、自負心、愛憎、嫉妬、不安、

吝嗇、義理人情の微妙なニュアンスを、

手に取るように理解することでしょう。

慈しみある人間関係はそこから始まります。

お釈迦様は、縁起は甚深で悟り難いと言われました。

十二縁起は仏教の根幹であり、

一切法がそこに内在しています。

心・心所と漏、業と業果、行苦、輪廻転生、

五蘊、名食、触五法、心路過程、四聖諦。

すべてが矛盾なく開示されています。

修行者にとって、

十二縁起を了知する重要性は量り知れません。

慧はIntellectual Stimulation(知的刺激)から得られるものではありません。

知的刺激は自我肥大を欲する心の領域です。

仏教の慧は菩提心と禅定から生じます。

菩提心は信とそれに随起するDhammacchanda(法欲)より生じ、

信はSaṅkhāra Dukkha(行苦)の了知と厭心から滲み出てくるのです。

一連の初転法輪説法でお釈迦様が開示されたのは、

中道、縁起、四聖諦と無常・苦・無我の三相です。

それらこそ仏教の眞髄であり、

人を苦の滅尽に導くダンマであり、

信と禅定で慧根を陽転させて、

自ら証悟するべき真理です。

仏教とは戒定慧の三学であることを、

決して忘れてはなりません。

人々の大半が同じ信仰を持っているのは、

過去に主権者による他宗教排斥があったからです。

上座部大寺派も例外ではありません。

私が希求しているのはそんな国家仏教ではなく、

世の流れに反した、自由で瑞々しい、

凛として高貴な、お釈迦様ご自身の仏教です。

それをずっと求め続けているのです。

瞑想会を終え、

身支度を整えて道場を出る際は、

「行って参ります」と、

至心に本尊に一礼いたします。

そのまま、

入息と出息を見失わないよう、

ブッダ・ニミッタが消滅しないよう、

心をガードしつつ、

ゆっくり駅まで歩いて行きましょう。

菩提心を失わないように、

注意深く、

一歩一歩を踏みしめながら。

Pariyattiとは、

一つ一つの言葉の意味を知り、

スタンザを読み、暗記し、

ダンマの定義を正確に分別すること。

Paṭipattiとは、

Pariyattiとして身につけたダンマを、

信、布施、戒律、慈悲、止観の修行として、

活かし実践していくこと。

本格的な瞑想修行には、
強固な土台、メディテーション・アンカーが必要です。
アンカーに対するトータル・コミットメントなしに、
修行を大きく前進させる事はできません。
ブッダ・ニミッタと入出息をアンカーとし、
朝から夜までずっと共にいる事を決意し実行すれば、
瞑想は確実に進歩するでしょう。

毎朝、ほんの少しだけ早く起きて、

世俗の生活に入る前に、

自分のために時間を使ってあげてください。

至心に仏法僧に祈りを捧げ、

10分でいいから、

入息と出息を見つめながら思考を止めてみましょう。

この習慣を10年続けることができたら、

いったいどれほどの内的成長が得られるでしょうか!

ニーチェツァラトゥストラに語らせています。

「我は血をもって書かれたもののみを愛する。

血で書く者は読まれることを欲しない。

暗誦されることを要求する。」

正に釈尊の御遺言に通ずる言葉です。

魂で語られた真理だからこそ、

全身全霊の随念に耐えるし値するのです。

雑書雑読は役に立ちません。

受容と離貪は、

私達にとても大きな力を与えてくれます。

私達が自分の弱点をあるがままに認め、

それを受け入れさえすれば、

その「手放し」によって、

圧倒的な力が湧き上がってきます。

逆に、自らの力をたのんで過信すれば、

私達はその傲慢さによって、

身を滅ぼすことになるでしょう。

成功する為に最初にやるべき事は、

無気力や投げやりにならず、

政治・経済や社会・業界の悪口を言わず、

事態が自然に好転することに望みを託さず、

今自分を取り巻いている諸々の悪条件を、

すべて前提条件として受け入れる事。

その上で「何ができるか」を、

謙虚に誠実に検討していきます。

禅定が得られないのは、

瞑想の技術が未熟だからではありません。

信(Saddhā)が足りないからです。

正確に言えば、

信を喚起して育てる技術が未熟だからです。

誓願と随念が未熟だからです。

不善思考を抑え込む技術が未熟だからです。

私達はこのことを、

しっかりと心に刻まなければなりません。

野戦病院で必死に負傷兵を治療する、

医師や看護師の心構えが必要です。

彼らには戦争を批判したり、

敵に怒りを持つ時間はありません。

そんな事は平和になってから幾らでもやればよい。

今は愛の心で、

傷ついた人々を全力で治療する事に集中すべきです。

慈悲の実践はそのように行わなければなりません。

運転シュミレータというゲームがあります。

一瞬一瞬現れる新しい局面に、

素早く適切に対応して衝突しないよう運転していきます。

熟練したゲーマーは無風の水面のように静まった心で、

パッパッと的確にハンドルをさばいていくのでしょう。

安般念や気づきの瞑想の秘訣によく似ているなと思います。