常に善心を喚起し、不善心を抑制し、
自らの信じる善行を勇気を以て行うこと。
そこには妥協も、忖度も、堕落も、
言い訳もあってはなりません。
自身で自身を厳しく律し、
善を生み不善を排除すること。
それこそが戒律とよばれる法の本質です。
そこからすべての善きものが
生まれ育っていくのです。
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時間軸に沿った依止縁だけを縁起と見ている限り、
世俗諦は砕破できません。
すでに伝法したように、
二十四縁起は百以上の縁起の型から
成立しています。
それらを駆使して精密に分析すれば、
真諦における縁起の姿が明らかになり、
中論頌の言説の一つ一つが、
真理の光を放って輝き始めるのです。
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今まで八年間、
アビダンマ、無礙解道、十二縁起、二十四縁起を、
共に学んできた皆さんは、
今こそ、学んだダンマの知識を駆使して、
世俗諦での随念を反復修習して下さい。
次に、今後伝法予定の五部論等を通じて、
世俗諦から真諦へと智見を深めて、
いよいよ真の観行・随観に挑戦していくのです。
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長く生きていると、人生には
若い頃思い描いた様な成功はない、
という事がわかります。
人生に常住・常楽・完全支配・浄美はなく、
その本質は無常・苦・無我・不浄である事に
気づく訳です。
そんな人生こそ大成功なのだと思います。
それに気づかず幻を追う生き方は、
未熟といえるかもしれません。
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仏教修行は、
四種の禅定智、
十二種の観智、
四種の出世間智を経て、
完成に至ります。
これらはどれも、
修習を重ねて熟成に至った時、
突然向こうからやってくる能力です。
ちょうど、自転車の練習をしていると、
突然乗れるようになるのに似ています。
教えは地図に過ぎません。
仏教は実践です。
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無明は、今この瞬間に生起した名色を
知覚・感受すると、
似た現象を記憶の中から検索し、
その固有の名色に
一般的な名札と意味をつけるのです。
それ以後、直接経験した名色ではなく、
名付けた名前と意味を使って、
思考し論理を組み立てていくのです。
これが戯論と呼ばれる一切の誤謬の起源です。
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世の中では諸々の事物は、
無明に立脚した轉倒した知
(無常→常住、行苦→常楽、
無我→実体、不浄→浄美)
によって記述されます。
生起・止住・消滅、存在・非存在、
劣・同等・優などとお釈迦様が説く時、
世間の轉倒した言語を使って語られるのあって、
不轉倒の真諦で説かれるのではありません。
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南伝論蔵を詳しく学べば誰でも、
無数の矛盾点や、それらを隠す
パッチワークに気づきます。
そしてそこにこそ、
お釈迦様が本当に説かれたダンマを
解き明かす鍵が隠されているのです。
南伝の矛盾を理解し、更なる高みを目指すには、
大寺派論蔵という不完全なハシゴが
どうしても必要だったのです。
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実在するものにも実在しないものにも、
生起消滅はありません。
故にJarā(老)すなわち、時間的経過も、
成長→熟成→腐敗のプロセスも、
そこにはありません。
これらの言葉の意味を正確に知って、
世間的直観として受け入れた誤った見解を
破壊して下さい。
縁起による現象は実在ではありません。
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たたわに実る重い房を幾つも支えている
バナナの木は、
幹への鎌のひとかきで崩れ落ちてしまいます。
人はどんなに富貴であっても、
いや富貴であればあるほど、
実りを支える為の犠牲は大きく、
衰退と消滅を先送りしつつ、
まるで成長と継続が
彼の本質であるかの様に演じる苦は
耐え難いものです。