ひとつの現象の生起には、
無数の複雑な因と条件が必要です。
個々の現象は無数の縁起によりバラバラに生じます。
「Aという事象の故にBという事象が生ずる」とする想定は、
ナイーブな読み方に過ぎません。
歴史学者社会学者も、
みなこの不確実な読解法に依存するが故に、
いつも間違えるのです。

論争や誹謗中傷をする人の心底には、
不快や嫉妬、吝嗇や慢心があります。
菩提心や慚愧はありません。
あなたが如何に善を為しても、
それを好まず、嫉妬し、
執拗に妨害する人が必ず現れます。
お釈迦様はそのような時、
決して相手にせず、反論せず、
黙々と八正道を歩まれたと伝えらています。

今日の世界に異変を見いだしても、
大騒ぎをしなければ何も無かったのと同じ、
明日も同じ世界が続いていく・・
小さな過失に目を瞑るにはよい方法ですが、
仏教者は沈黙を守りつつ、
変化や亀裂を、策略や危機を、
如実に認識しています。
何故ならそれが世界を冷徹に了知する
唯一の方法だからです。

信は争いを知りません。
本当の信を持つ人は、
本当の信を持って別の道を歩む人に、
心からの尊敬と慈愛を感じます。
真の愛国心を持つ人は、
真の愛国心を持つ他国民の心に、
深く感動し共感します。
そこに敵対の心はありません。
異なる道であっても、
善心は差異ではなく一体感だけを見るのです。

仏教は死ぬことと見つけたり
長命する前提で思考し、計画し、行動すれば、
謬見の上の砂上の楼閣となり、
苦を逃れるすべはありません。
今この瞬間にも死が訪れると観じ、
一瞬一瞬、全力を尽くすのが仏教的生き方です。
これは死随念として体系化されており、
傳修院でその方法を指導しています。

大乗だろうと、上座だろうと、
出家だろうと、在家だろうと、
どの戒を護持していようと、
私は一切区別しません。
三宝への信だけが重要なのです。
未だ証悟に至らぬ者が、
涅槃に至る方法をあれこれ論じても、
何の意味もありません。
菩提心があれば、ダンマを授けます。
あとは実践あるのみです。

何を見抜き証悟したとしても、
ニュートンのレトリックを借りれば、
ダンマの広大な砂浜で、
一粒の砂を拾ったにすぎません。
三宝の無量無辺の真理世界に抱かれて、
謙虚で誠実な小児のような心で、
キラキラ光る砂を見つける、
そのように般涅槃するのです。
「私は真理を悟った」のではありません。

誤った先入見の表象の総和が世界です。
その中で現象をあるがままに見るには、
勇気が必要です。
現象の本質を看破するには、
不動の覚悟が必要です。
世の謬見に反した認識は全世界を敵に回し、
ガリレオ的受難をあなたにもたらします。
故に仏教者は聖黙し、
菩提心ある者にのみ対機説法するのです。

信に基づく不動の義というものがあります。
心は、盛運の時には、
利を見込んで浮き足立ちますが、
苦難の時は動揺し、
信と義が試されます。
人としての真価がそこで露呈します。
心が燃えている者は幸いなるかな。
道を定めた者は幸いなるかな。
利にさとく信義に暗い人に、
真の勝利は訪れません。

八正道を歩む者は、
この輪廻世界に本源的に内在する、
無常性・行苦性・無我性を見抜かなくては
なりません。
それは離貪と呼ばれる、
智慧による内的な手放しであり、
高い意識の嘔吐感を伴います。
そして、SMILE!
あなたの周りの人達に、
常に慈悲深くあることを忘れてはなりません。

今日の世界が明日以降も続くとの前提の上に、
心の安定が保たれています。
しかし今日の世界を見て下さい。
911や311を思いだして下さい。
世界がいかに脆弱か、
明日の安定継続がいかに甘い想定かが
わかるでしょう。
厭う想いが生じた人は幸いです。
私達の幸福はもっと高い処で探さねばなりません。

心底に沈殿したヘドロのようなĀsava(漏)が煩悩の本体です。
心の表面に浮上すれば貪や瞋として表象するものの、
漏は本来、より混沌としたものです。
貪瞋痴に分類できない幾つかの本能的モーメンタムが、
煩悩生起の潜在的傾向性を形成します。
例えば攻撃的傾向性から、貪も瞋も生じえるのです。

私がブラジルで学んだ最大のものは、
Tropicalismo(異文化流入に対する防御壁)です。
もともとは音楽用語ですが、
文化のグローバリズムから自国文化を守る、
最も洗練された方法です。
仏教に当てはめると、
大寺派仏教等の異教的様式の流入に対し、
それを無防備に受け入れるのではなくして、
よい点だけをわが国の伝統仏教に融合・昇華させることで、
日本人の心に合ったより善い様式を構築し、同時に、
異教の流入による文化的混乱と破壊を防ぐというものです。
日本は大陸文化の流入に対して、
ずっとこの方法で伝統を守ってきました。
空海道元の歩まれたこの道を私も歩もうと思います。

仏教で説く地水火風(ちすいかふう)の四大元素は、
接触神経が感受するRūpaで、
非常に精密で深遠なダンマです。
例えば人差し指の先で何かに触れれば、
そこには必ず地水火風の知覚があります。
五行思想の木火土金水(もっかどこんすい)は、
熱による名色の変節であり、
四大とは異なる大系です。

参学者はやるべき事をやらねばなりません。
努力を怠ればツケを払うのはあなた自身です。
修業日誌をつける事から始めて下さい。
日々の修行について自身と語り合う習慣を身に付け、
自らに恥じない修行を行うのです。
そしてPāramīcardを必ず提出すること。
請願がなければ修行は絶対に成功しません。