信は、すべてを支える根本です。
菩提樹を繰り出す種子であり、
解脱に至る主因です。
慈悲は、滋養あふれる土壌です。
一切の生命を決して傷つけまいとする決意です。
その上で、学びの慈雨を得て、
涅槃である太陽を目指して、
止観行の年輪を重ねていく。
仏教修行は、そのようにできているのです。

眼前に生起する現象を、心が対象として捉える瞬間を
観察してみましょう。
対象を受け入れたいか、受け入れたくないか、
心が瞬時に判断している事に気づくでしょう。
一切の誤った見解や貪瞋痴の不善が、
その瞬間に生じます。
この心の働きが「渇愛が新たな転生を生む」と
釈尊が説かれた意味です。

あなたは祝福された釈尊の直弟子ですか?
正思惟に照らし合わせて身調べして下さい。
周りの人達とどんな関係を結んでいますか?
布施と慈悲を実践していますか?
仏法を広めていますか?
学びや戒律護持、瞑想だけに終始する修行なら、
あなたは手足のない小乗者です。
その修行に未来はありません。

心を調教しなくてはなりません。
禅定に入りかけた心が、
その専注の対象である所縁から、
一瞬でも外れれば、
心は静寂な至福である梵天界から、
貪瞋痴が逆巻く欲界へと、
堕ちてしまいます。
六十頌如理論で龍樹はこれを、
「動揺している心は、
悪魔(マーラ)の領域に属する」
と表現されました。

無常を随念し、無常の故に生ずる苦を随念し、
苦の故に了知する無我を随念し、
煩悩の遮断を随念し、離貪を随念す。
一切の現象は不快なる事を随念し、
貪る喜びを随念し、体内の虫を随念し、
危険を随念し、名色の滅尽を随念し、行苦を随念す。
これらの至宝が経蔵にあるのに、
なぜ実践されていないのでしょうか?

私の心に深く脈打つこの感謝の想い、
それだけが唯一の真実です。
誰が何と言おうと、
今、ここで燃えているのです。
「この恩にどう報いることができるでしょうか?」
そう自問すると、
感謝に震える心は私に答えてくれます。
「一刻も早く自己完成しなさい。
それが御恩に報いる唯一の道なのです。」

入出息をメディテーション・アンカーとするのは、
とてもよいアイデアです。
日常の一切の活動において、
心の何割かを呼吸に向け続けていくのです。
ただし入息/出息の認識ではアンカーになりません。
そうではなく、息が鼻の穴に触れる感覚だけを、
入息出息と区別せずに感受し続けるようにします。

私がミャンマーで最も違和感を感じたのは、
清浄道に基づく十六観智の修行だけを行い、
四念処を中心とした菩提分法には、
一切触れることがなかった点でした。
すべての仏教修行は菩提分法に集約されています。
私は40年間、菩提分法の完成だけを目指してきたのです。
とても大きな肩すかしでした。

最初期の仏教は他律ではなく自律であったことは明らかです。
僧伽の後継者が律を統治に用いつつ加筆した為か、
律の放つ香りは経蔵・論蔵の高貴なそれとは明らかに異なります。
五戒の領域内で謹んでいればよいというものではありません。
ダンマに沿って自らを律していかなければ仏教は成立しません。

ひとが生きていく上で、
絶対にしてはならないこと、
それは怒りを爆発させ、
その刺激を貪ることです。
他人に対しても、
自分自身に対しても、
決して破壊工作を行ってはなりません。
怒りや嫉妬から、
いかなる幸福も生じることはなく、
必ず悲劇的結末がやってきます。
怒りの抑制は至上命令です。

今吸いつつあるその息は、
一瞬のうちに消滅してしまう、
かけがえのない息です。
今吐きつつあるその息には、
私達が希求する静寂と至福があります。
入出息の一瞬一瞬が、
キラキラ輝く奇跡の連続です。
目を閉じて息を吸うだけで、
至高なる真理と一体となれる、
それがアナパナ瞑想のすごさです。

ケースに入れておかなければ、
楽器は傷つき、
薬瓶にいれておかなければ、
錠剤は散逸してしまいます。
形から入ることを嫌う人がいますが、
様式は「中身を運ぶ容れもの」です。
四十種類のサマタ瞑想、
七清浄の修行階梯。
七科三十七道品。
これらの優れた様式の中で、
正見が育っていくのです。

勇気を出して自らの人間関係を
すべて正常化しましょう。
他人が自分に対して何をしたかではなく、
自分が他人に対して何をしたか、
それだけを問うのです。
赦し、感謝、慈悲、謝罪、懺悔。
二度と顔を合わせられない関係を、
正常に戻す事は無上の善行であり、
深い至福を双方にもたらしてくれます。

計画を立てる時、進路に迷った時、
次の方法を実践して下さい。
「お釈迦様ならどうされるだろう?
お釈迦様にお訊きしたら何とお答えになるだろう?」
そう深く随念した後、その思考を離れ、
一心に安般念を行います。
心が充分満足したら専注から出て下さい。
お釈迦様のお答えは目の前にあります。

仏教を学ぶ人達が、
仏教徒に見えないのは何故でしょう?
最近の人達には何が欠けているのでしょう?
当り前過ぎてウッカリしていました、
下座行(げざぎょう)の決定的不足です。
プライドを叩き壊しながら行う下座の精進。
皆それを徹底的にやったからこそ、
ピッカピカの仏教者になれたのでした!