四資具(衣食住薬)は本来、
生存の苦を軽減する贅沢品です。
冬の寒さや悪天候の中で、
私達は如何に四資具に依存しているかを
痛感します。
四資具は過去世の善業の結果として
享受している事を知らねばなりません。
四悪趣では四資具は満足に得られず、
衆生の苦はたいへん大きなものになります。

眼の前に存在する、あるがままの世界は、
そのまま真実です。
しかしその世界についての記述は、
真実ではありません。
この二つを混同してはなりません。
世界についての記述は常に謬見に陥ります。
それは戯論と呼ばれます。
戯論がつきたとき、心は鏡のように鎮まり、
記述できない真理が現れます。

死随念を日々修習していると、
自らが明確な認識をもって、
死の床につく夢を見ることがあります。
その時あなたは、
生存への渇愛がどれ程残っているか、
為すべき事を為し得ていない瞋恚が、
どれ程生起するかを如実に知るでしょう。
臨終の霊夢により自らの修行の進捗状況が、
明らかになるのです。

一切の現象には実体がなく空である、とは、
陽炎の如き幻影だという意味ではありません。
ここで時間とは何かが変化する時に生ずる物差しです。
生から滅への時間的変化が老です。
生起がなく消滅もなければ変化もなく時間もありません。
それが実体であり涅槃です。
そうでないものを空と呼ぶのです。

釈尊より無数の先達の手を経て、
法があなたに手渡されました。
仏教に巡り会えたのは、
あなたが道を求めたからではなく、
先達がダンマをあなたの目の前に置き、
あなたの波羅蜜がそれを見つけたからです。
あなたがこの聖なる法のバケツリレーを
やめてしまえば、
救済の流れはあなたで止まります。

無明は暗闇、叡智は光明。
光明の前で、暗闇は無力です。
漆黒の中、手探りで生きるのは
やめましょう。
光を当てれば一瞬で解決します。
心の隅がまだ暗ければ、
光を当てて解決して下さい。
仏智は太陽の光の如し。
ダンマの大光明のもと、
すべては明らかになります。
正見は謬見を完全に駆逐します。

或る事象が自分に良くない知らせを
もたらしそうな時、
先ず私達は心の状態に
注意を払わなければなりません。
もし心が十分に強くないなら、
その事象に対峙する前に、
心をダンマのご加護と積極的展望で、
パンプアップして下さい。
そうして初めて、
勇気をもって問題に立ち向かい、
改善することができるのです。

Adhiṭṭhāna(決意)とは、
やることを事前に心に明確に宣言し、
舵を固定して目標に向かって突き進むことです。
優柔不断の心が入り込む余地はありません。
大きな目標は誓願と呼ばれますが、
歯を磨く、といった些細な行為も、
すべて決意して行います。
決意を習慣化する事は修行の真の要諦です。

24億人の基督教徒の中には、
新約の最終章、ヨハネの黙示録を、
ハルマゲドン(世界最終戦争)の預言と読み取り、
それが千年王国に至る避けられぬ試練ととらえ、
今がその時だと信じている方々がおられます。
施政者達の潜在意識にその謬見が刷り込まれていたら?
涅槃への希求が湧き上がる瞬間です。

どのような分野であれ、他人と競えば、
貪りや慢心、敵意や嫉妬が生じます。
故に他人と競争してはいけません。
打ち負かすべきは自分の限界です。
昨日までの自分の能力の限界を、
今日、越えていく。
これはSelf-transcendence(自己超越)と呼ばれ、
私がずっと大切にしている修行の秘密兵器です。

魂の道を見失ってしまった人々の為に仏教を説く。
固有の伝統様式に執われず、
上座と大乗の二辺をも超越した仏教。
誰の心をも豊かにする、
清らかさの実践法としての仏教。
日本の先祖供養の慣習を包含する、
懐の深い仏教。
もし今お釈迦様が生きておられたら、
きっと説かれたであろう仏教を説く。

米国内の分断や米中問題など、
平和について考えさせられる機会が
多くなりました。
貪瞋痴が強い人間界では、
「世界はひとつ」のグローバル意識を、
恒常的に保つことはできません。
故に各国家を家族とし、
向こう三軒両隣、和を重んじながら、
お互いに仲良く付き合っていくしか、
ありません。
人間界で構築可能な国家とは、
根底に同族意識があり、
例え国家内で争いがあっても、
みんなで認めたルールによって
紳士的に解決しようという意思を、
お互いが持っている集団です。
強欲や政治的理由で国の境界が定められれば、
何十年、何百年と解決されぬ争いの種と、
民族的トラウマが生じます。

不善心は人から人へと、
一瞬で感染していきます。
燃えない情熱、見失った希望、
優柔不断、悲観や絶望、
瞬く間に他人の心に感染してしまうのです。
故に自らのDubbalatā - 心の弱さを

決して表象させてはなりません。
短い瞑想と誓願で心を奮い立たせ、
善友同士、相互に菩提心を喚起し合うのです。

智慧は思索や分析や推敲では得られません。
熱き信と情熱をもって、
求め続けなくてはなりません。
スタンザを暗記し、繰り返し唱え、
何度も何度もその真意を味わい、
随念する必要があります。
本当に重要なダンマは、
それ程多くはありません。
広さではなく、如何に深く知るか。
それが重要です。

Aの故にBが生ずる、という論法を
ダンマの読取りにそのまま使えば、
一切は戯論となります。
涅槃証悟に至る縁起は、
十二縁起を熟知した上で、
各支間に働く二十四縁起の
複雑な関係性を解きほぐしつつ、
名色を識別する事で看破できるのです。
十二支、二十四支の縁起の習得が
必須である所以です。