私の心は今何をしようとしているのだろうか?
どんな衝動が生じているのだろうか? 
もし私が煩悩のままに行動すると
どんな結果をもたらすのだろうか?
私達は常に自分の衝動と
それがマニフェストする身口意の三業に
気づき目覚めていなくてはなりません。
空虚で不必要な言動は慎まねばなりません。

戒とは何でしょうか?
僧伽のルールであれ、自律のルールであれ、
守ると自分で決めた修行ルールを
一切の妥協なく守る、
鋭いサティを以て六根を防御する、
それが修行者の持つべき本当の戒です。
他人が決めたルールの表面を
なぞるように守ればよいというのは、
戒を軽視している事に他なりません。

心がクサラの状態で眠りについていると、
夢の中に聖なる師が現れて、
私達に何かを示すことがあります。
その時は夢の意味を
よく噛みしめることが大切です。
聖なる師が私達の手を握り、
師との関係を思い出させてくれる、
そして私達の手を取って、
正道に導いてくれているんだと
理解して下さい。

パオ僧院で私は初めて
本当の暗闇を知りました。
星一つ無い新月の夜
私の懐中電灯は電池が切れてしまい、
森の斜面に作られた曲がりくねった
130段の石段を登って
漆黒の闇の中、クティを目指さなくては
なりませんでした。
前に躓き、手をついて、
足の指と手のひらから出血し、
雑草の棘が足に刺さり、毒虫に喰われ
うずくまって手で暗闇を叩きながら、
次の段を確かめながら進みます。
目を閉じても開けても変わらぬ漆黒。 
石段を踏み外せば滑り落ちてしまう
恐怖を感じながら、
一時間かけてようやくクティに
辿り着くことができました。
星明かりのありがたさが身に染みます。

仏陀の浄光なき無明の世界は、
こういう事なのだと
しみじみと感得しました。
闇を照らす光がある事は
なんという祝福か!
清らかな至福に満たされ進みましょう。
常住の天国という戯論に
身を委ねることはできません。
無明の恐怖に愕然としつつ
死に物狂いで輪廻の輪から
ともに脱出しましょう!

心の中にシュラインを建立して下さい。
そこに救いの拠り所=仏法僧のシンボルとなる
ニミッタをお祀りして下さい。
そしていつでもどこでも、
心のシュラインと会話を続けて下さい。
分からないことがあれば、
シュラインに問いかけて下さい。
決断すべき大切な事は
シュラインと共に決断して下さい。

僧伽には現前僧伽と四方僧伽があります。
前者は自分が属している実際の僧伽、
後者は概念的に捉えた仏陀僧伽と言われます。
しかし本当の四方僧伽は、
私達の燃え上がる菩提心によって
心に出現する僧伽を意味します。
そしてその菩提心を受けて
現前の僧伽が私達にとって
三宝の一角となるのです。

例え瓦石や木切れで建てられた
僧院であっても、
真摯な仏教徒が集う僧伽には
兜率天の佇まいが生まれます。
兜率天には七宝の舎利塔を中心に
内外二院の僧院があり、
外院は在家、内院は出家の
道場となっています。
彼等は色声香味触の感覚対象に対し
足るを知る心を持ち、
貪ることがありません。

この世界で、そして私達の心の中で、
無明はすさまじい速度で膨張しています。
その故に仏陀が人間界に降臨する間隔も
果てしなく長くなってしまうのです。
それは「夜空は暗い」という素朴な事実から
私達の宇宙には始まりがあり
宇宙は光を超える速度で膨張している事が
証明されるのに似ています。

人や物の間に存在する縁起関係を
二十四縁起で観察する事を習慣づけて下さい。
例えば相互依存縁(Aññamañña-paccaya)。
三本の割り箸で作ったピラミッドは
箸一本が欠けても存在できません。
自分が他に依存し同時に他が自分に依存して
初めて成立する関係は、
一切の世俗現象に見ることができます。

相互依存で成立する関係が
自他に多くの善をもたらす場合は、
相互に与え合い相互に善を享受しあう原則を
忘れてはなりません。
どんな大きな僧伽でも真の僧伽であれば、
あなたに依存している事を忘れないでください。
あなたがいなければ、僧伽は崩れるのです。
あなたがいれば、僧伽は輝くのです。

世の中には怒り、悲しみ、不安、嫉妬、
悔恨、物惜しみ等、
Dosaから生ずる様々な負の感情に
無抵抗の人々が多くいます。
Dosaを制御せず、
自分は被害者であるかの如く
そのまま受け入れて正当化すると、
周りの人々やとりわけ自分自身を
とても不幸にしてしまいます。
幸せ上手にDosaは不要です。

慈悲の瞑想のMettāとは
個々の生命への慈愛ではなく、
一切生命への無条件の慈愛です。
この二つは似て非なるものです。
この瞑想には二つの要素しかありません。
どの位広い領域に存在する一切生命か、
そしてそれらに対する無条件の慈愛が
今この瞬間に心に生起しているか、
それがMettāの根幹です。

故に死随念は行者が毎日修するべき
自身を守る四つの「四護衛禅」に
含まれているのです。
死随念は毎朝一番最初に行ずるのが
よいでしょう。
今日は私の人生最後の日である、
と念ずる事により、
戯論と貪りに流れやすい一日に
ピリッとした香辛料のような
味わいある緊張をもたらしてくれます。

なぜ世尊は日々死随念を修する事を
比丘に命じられたのか?
それは今日が人生最後の日だったら
修行者は何をすべきかという問いかけです。
今日一日で悟りを得る事はできなくとも
燃え上がる菩提心三宝への自己放棄により
四悪趣に堕ちる事だけは避けられるよう
修行せよという事に他なりません。

あなたはあなた自身として
日々を送っているのではなく
単にあなたはあなた自身を
演じているだけなんだという
そこはかとない感覚を感じた事がありますか?
あなたには未だ見ぬ故郷があり
ここでは異邦人なんだと感じる
あの郷愁はとても大切です。
それは我見という大きな岩山を砕く
蟻の一穴です。