人差し指でテーブルを叩く時、
実際に感受しているのは、
テーブルではなく地界です。
冷たいかき氷を口に入れる時、
実際にひんやりと感じるのは、
氷ではなく火界です。
頭では理解していても、
認識は容易に概念を超えられません。
私達は正念正智を以て、
一切の現象を認識し直す必要があります。

意力、精力、定力、慧力、
その何れかを一刹那に凝縮する力が
四如意足法です。
千佛化現や双神変等の仏伝故事で
その神通の一端を知ることができます。
四如意足法に礎を求めれば、
加持や九字や気合、
武道の咆哮に於いても不善は生ぜず、
心は鏡の如く鎮まって居られるでしょう。
心は不思議なり。

過去の善不善の行為の果報は、
眼耳鼻舌身の五識で感受され、
それに対する反応として新たな業が形成されます。
善不善の身業・語業・意業です。
この循環が永遠に続きます。
幸福な未来を創る最善の戦略は、
心が如何に不善を感じようと、
決して言葉や身体的行動で表現しない、
という事に尽きます。

真実を真実でないと誤認し、
真実でないものを真実と誤認し、
その認識に固く執着する人は、
無明に覆われた思考により
四悪趣の深みにはまってしまいます。
真実を真実と知り得ず、
非真実を非真実と知り得ないなら、
「私には分からない」と認めて
ブラックボックスに入れて
離れてしまいましょう。

ダンマの加持力恐るべし!
アビダンマはそのうち本で学べばいい、
そう思っても当てが違います。
Lakkhaṇādiを、漏の蓄積を、
縁起の理法を、三相四十行相を、
どこで学べるというのですか?
論蔵を真剣に学ぶ諸君を
三宝は決して離しません。
彼の菩提心波羅蜜は、涅槃証悟まで
彼につき従います。

現代社会では発言には責任が伴います。
不用意で感情的な発言、不正確な発言、
攻撃的な発言、社会通念にもとる発言をすれば、
厳しい批判に直面します。
SNSは多くの人々に発言の自由を与えましたが、
自己抑制せず匿名で無責任な発言や中傷を繰り返せば、
せっかくの自由はやがて失われるでしょう。

人間やすべての事物が
時々単なる幻影か、
夢の中の出来事に見えてしまう、
或いは自分の今までの人生が、
壮大なドッキリカメラで、
今にも司会者がマイクを持って
出てくる気配を感じる、といった感覚は、
輪廻世界に不信を持ち、
ここで主人公を熱演したくない、
仏教的素質の現れに他なりません。

技術は発達すればするほど、
精神を退化させます。
世界に情報が氾濫していますが、
知る価値のあるものはほとんどありません。
成熟した精神は技術も知識も必要としておらず、
むしろそれらから離れた静寂を希求しています。
情報と技術の狂乱の果てには、
文明の滅亡がある事を忘れてはなりません。

優れた才能は、
謙虚さと思いやりがなければ、
他人にとって耐え難いものです。
もし何かに秀でているのなら、
他人を認めなければなりません。
あなたの承認と尊重が得られないと、
人々はあなたをうらみ嫉妬し、
引きずり下ろします。
優れた才能は社会に依存しませんが、
社会は心酔し嫉妬します。

例え善因であれ、
喜びが身体を突き抜けると、
心は粗雑となり、貪りや慢や謬見が
瞬時に心に侵入します。
「浮き足だった稚拙な判断」は、
たいていこのような状況で起こります。
経験を積んだ修行者は、
その膨らんだ風船を針で突ついて
平常心を速やかに取り戻すことを、
学ばなければなりません。

まず自分で動き始める必要があります。
自分で行動せずに人にお願いしたり、
意見を述べたり指図をしても、
人は動きません。
ごちゃごちゃ言わずに先ず動くこと。
そうすれば心ある人達は、
あなたと一緒に動いてくれるのです。
人が動いてくれない経験がある人は、
自分で動くことから始めて下さい。

最高の箱庭を作りたい、
私らしい箱庭を作りたい、
少なくとも世間並みの箱庭を作りたい、
誰でもそんなふうに
幸せな人生を計画します。
しかしどんな人生であれ例外なく、
夢破れ、衰え、減少し、壊れ、
悲哀のうちに終わるのです。
その無常・苦・無我を実感できれば、
解脱への門が開くでしょう。

五輪競技を見ていて感動するのは、
自己の限界を超えていく決意と情熱を
目の当たりにした時です。
どの国の選手かも、勝利すらも、
問題ではありません。
自分の限界を超えようとする純粋な姿を見る時、
私達は感動するのです。
力を尽くした選手同志が相手を賞賛しあう、
五輪精神が輝く瞬間です。

たまにテレビを覗いても
登場人物のDosaがあまりに酷く、
耐えられずに消してしまう事がよくあります。
世の中にはわざと胃が痛くなるようなDosaを描き、
他人の感情をもてあそんで得意がる脚本家がいるようです。
それが人々に及ぼす不善業を考慮していないのでしょう。
実に愚かで恐ろしい事です。

仕事や家庭環境が厳しく、
修行時間がとれないと
悲観する必要はありません。
修行の時間をひねり出せない時は、
仕事や家庭生活そのものを
修行にしてしまえばよいのです。
諸悪莫作・衆善奉行、
他の生命を決して傷つけず、
法施・財施無財の七施に徹していけば、
やがて必ず道が開けるでしょう。