人生の勝者
地上の富の半分を得た人も、
一切を失い絶望の淵に堕ちた人も、
多くの人に愛された人も、
身よりなき孤独な人も、
死に臨んでは無常・苦・無我の
足のすくむ深淵に、
召し捕られていきます。
四果を得た聖者と、
菩提心の涙で転生する修行者だけが、
万人に祝福される死を迎えるのです。

我見に翻弄された者は、
世界で貪瞋痴を実現せんとし、
力及ばぬとあらば世界に背を向け、
自らの箱庭に逃げ込みます。
一方、仏教者はこの世を骨の髄まで厭い、
輪廻の中で苦しむ有情に涙し、
慈愛の手を差し伸べるのです。
善人悪人の区別はありません。
それが仏教者の心です。
例外はありません。

「道」と呼ばれる一切は、
真似る事から始まります。
「ならう」とは「まねる」に他なりません。
先ず習得すべきものを、
完全にコピーし暗記しなくてはなりません。
初心の段階で「私の個性」や「私らしさ」
というものは存在しません。
それは道の熟成の最終段階で、
自然に醸し出される佇まいです。

禅定の一時的至福は、
各刹那、新たな所縁を知覚しなくてよい平安が
その本質です。
もし如何なる所縁も生起しなければ、
絶対的至福が得られます。
凡そ原因があって生起する一切の所縁は苦です。
生起がなければ苦はありません。
各刹那に表象するこのダンマに気づけば、
行苦が看破できるでしょう。

新年の誓い
私達は各々、三宝と独特の関係を持っています。
自我と三宝との関係は
心の成長によって変化していきます。
愛→手足→放棄。
どの段階においても、
三宝に対して一点の後ろめたさもない心を
養うことが大切です。
日に一度は三宝と真摯に向き合い、
至聖を想う心を正常化していきましょう。

浄土真宗では一念往生、すなわち
臨終時に一度だけ阿弥陀様を念ずれば、
極楽往生すると説かれます。
一見仏説と異なるように思えますが、
アビダンマの視点から見ればこれは臨死業に他ならず、
その教えにまったく間違いのないことがわかります。
浄土教もまたお釈迦様の嫡子であることを実感します。

執着が問題なのではありません。
「私」と「私でないもの」との間に引く、
境界線が問題なのです。
慈経には独り子を守る母親の話があります。
この経節の真意は、
一切有情を我が子として扱いなさい、
ということです。
その時、私達の心はとろけるような慈愛に満たされ、
一切の執着は消失します。

情熱をもって善を実践している人なら、
衆生の福利を願い心を尽くして積む徳と、
自らの智慧の発現との、
必然的な因果関係を知っています。
心からの布施と固い決意の自己制御なくして、
智慧の発現はありません。
アビダンマの習得は智慧の種とはなりますが、
徳という養分がなければ発芽しません。

個人の権利や尊厳は本来、
主張して勝ち取るものではなく、
相互に与え合うべきものです。
生も死も、その間に起こる一切の事象も、
すべて他に依存して生ずる事実を
深く随念すれば、
「私」も「慢心」も消え去り、
共に生きる一切の生命への慈しみが、
私達の心に自然に湧き上がってくるはずです。

人生で一番楽しかった宝物のような記憶。
しかし喜びは当時の輝きを失い、
とても哀しい色をしています。
正に輪廻に内在する本源的な苦です。
一方、決して色褪せない至福もあります。
思い出す度に反復される恍惚があります。
それは発菩提の法悦です。
サンサーラに属さぬが故に色褪せないのです。

平和とは外的に争いがない状態ではありません。
本当の平和とは貪りや怒りを離れた心によって、
内側から湧き上がる想いです。
他の生命を慈しみ幸せを願う心、
いかなる生命も決して傷つけまいとする心が
平和の源泉です。
故に真の平和があるところには、
不正も、いじめも、搾取も決してないのです。

好ましくない感覚対象は、
日々間断なく五門に生じます。
嫌な出来事や望まぬ結果も、
間断なく私達を襲います。
しかしこれらは真の問題ではありません。
必ずしも苦の原因とはなりません。
ではいかに苦は生ずるか?
これら所縁に反応して私達が起こすリアクション、
正にそこから苦は生ずるのです。

道場では自らの最善の性質を、
前面に出さなければなりません。
演技でもいいから、そうする義務があります。
本当の自分である必要はありません。
それは瞑想の余韻の中で見つけるものです。
善友同士がお互いに、
抜苦与楽の心で向き合う修行をしていると観想すれば、
道場は天国のようになります。

私達は一日のほとんどを不善な心で過ごしています。
今この瞬間の心が善か不善かを、
虚心に見つめる習慣を身につけられたら、
どんなにいいでしょう!
善なる心をアビダンマの本で知ることはできません。
自らその至福と清浄感に席巻されて初めて、
私達はその力強さと甘美さをしみじみと知るのです。

随念と禅定をしっかりと修習しましょう。
そうすればやがて、
観行の素地が耕されていきます。
観行とは何か?
Nāma-rūpaの連続体であるこの生存を、
輪切りにして分析し、
時間軸に沿って分析し、
内在する無常・苦・無我の三相を見抜いて、
轉倒した先入見を破壊する修行です。
涅槃に至る正道です。