行。何と魅惑的な響きでしょう。
自ら入行を決意すれば、
どんな理由であれ、
決して挫折することはできません。
遭遇する様々な障害は、
克服すべき試練に過ぎません。
確かに楽ではありませんが、
決して辛くはありません。
わが信、わが矜持は忘我の至福の中で、
山頂を目指し険しき道を登ります。

初めてひとりでトイレができた時。
初めて補助輪なしで自転車に乗れた時。
初めて浮き輪なしで数メートル泳けた時。
初めて外人に英語が通じた時。
その時の達成感と喜びを思い出してください。
突然できるようになるのです。
ちょっとぐらい難しいからといって、
弱音を吐かないで!
絶対にできます!

習慣の三階梯
自ら決めた習慣を日々継続することは、
花の首飾りに通す一本の中糸のように、
生活に美と秩序をもたらします。

 

自らの意志で続ける習慣は、
強制ではないが故に壊れやすく、
継続には固い決意が必要です。

 

決意した習慣の継続が修行であり、
継続から生じる力が修行を成就に導きます。

年間の晴天日数は220日程です。
あなたは日の出と日の入の時間を、
有効に使っていますか?
あなたから見える日の出、日の入でいいのです。
光を浴びて静かに佇み、
身体と呼吸と心を調えて、
神聖なバイブレーションを身体いっぱいに感じ取り、
光と一体になって下さい。
日に二回の神聖な沐浴です。

人と人との繋がりはかけがえのないものです。
今生で私達の周りにいるのは、
輪廻を超えた深い縁で結ばれた方々ばかりです。
敵だ味方だと、貪りや怒りで向き合えば、
諸とも四悪趣に堕ちてしまうでしょう。
今こそ私達は慈悲と離貪を礎とした正思惟の心で、
うるわしき人間関係を作らねばなりません。

長く僧伽に参詣できないと、
心が三宝から離れやすくなります。
そのような時期には、
普段以上の念と自律が必要です。
修行者は日々、五戒を読誦し、
六随念と吉祥偈を読誦し、
六十日行等、自ら定めた瞑想修行を
厳密に行い、
修行日誌をつけ、
自らの菩提心を絶やさぬよう、
努力を重ねて下さい。

修行生活をチェックする四つの項目があります。
修行の最終目的を常に明確に捉えているか?
仏法僧への信が日々燃えさかっているか?
間断なく休憩なく、為すべき事を為しているか?
もうこれ以上できないという限度いっぱいまで、
為すべき事を為しているか?
ぜひ日々確認して頂きたいと思います。

非常時は四正断のチャンスです。
過去に煩悩作意で始めてしまった事は、
即刻切り捨て、
以後、煩悩を因とする行動を慎むよう、
念を凝らします。
善作意を因として始めた習慣は、
何があっても維持・継続し、
さらなる陰徳を積み重ねていきます。
夜が明ければ、
眼前に豊かな実りを見ることでしょう。

こんな時だからこそ、
人の為に何ができるか、
考えてみましょう。
外出自粛の今だからこそできる、
何かがあるはずです。
誰かが必要としている何かが、
必ずあるはずです。
手作りマスクでも消毒液でも、
何でもいい、
行動しましょう。
どんな事でもいいから、
人の為に何か善いことをしましょう。

一人の感染者の後ろには、
不安と恐怖に苛まれた、
多くの家族や友人がいます。
一人の死亡者の後ろには、
深い悲しみに打ちひしがれた、
多くの家族や友人の涙があります。
私達はそのように数字を見なければなりません。
そのままでは数字は概念にすぎず、
その背後の真実を見ることができません。

Supreme Barrier。
お釈迦様は一切衆生の救済のために、
法を説くことを誓願され、
無上正等覚を得られました。
故にお釈迦様の御心とは大慈悲であり、
大慈悲はそのままお釈迦様の御心なのです。
三宝大慈悲心があなたを護る為に光り輝くとき、
一切の魔障の者は、あなたに近づくことができません。

定義と論理が変化しない美しい議論を聞く事は、
ほぼありません。
双方の定義は大抵最初からずれていて、
論点が変わる度に
条件や定義をさらに微調整するので、
混乱は制御不能となります。
正念正智の人は、
言語の不正確さが耐えられません。
龍樹が「一切の言語作用は戯論だ」と説かれた所以です。

感染の恐怖。経済的不安。
マスクや消毒液の不足。
怒りの種が尽きませんか?
怒りを動機として
世の中を変革することは、
確かにできます。
しかし私達仏教者が行動を起こす時は、
怒りを克服して無常・苦・無我の視点に立ち、
人々の安全と福利を心から願い、
大慈大悲の心で事を為さねばなりません。

世界中から何百万人もの観光客を迎え、
空前の五輪景気に湧くはずだった2020年春の日本。
それが今、異国に端を発した疫病で、
史上最悪の大恐慌に巻き込まれんとしています。
世界の本性はこんなものですが、
無常・苦・無我に不慣れな人の心は傷つきました。
どうか三宝にご縁が結ばれますように。

測定可能な物理世界の理(ことわり)を抽象化していくと、
数式という究極の美に至ります。
実証可能な内的世界の理を抽象化していくと、
アビダンマという究極の美に至ります。
最先端の理論物理学の研究には最高度の数学が必須なように、
妥協なき八正道の実践には最高度のアビダンマが必要です。