精進(Vīriya)とは、
忍耐や努力ではなく、
内からわき上がる圧倒的なエネルギーです。
ふつう七割の力で働き続ければ人は疲労困憊しますが、
精進を陽転させれば、
何倍もの力が内奥からほとばしりでて、
甘美なエクスタシーの中で、
幾らでも働き続ける事ができるのです。
それが精進根の実相です。
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「やってみたけど出来なかった?
だったら百回やってみろ!
千回、いや百万回でもやってみろ!」
「三年やっても禅定に入れない?
だったら十年続けなさい、いや、
二十年、三十年続けなさい。
それで出来れば大成功じゃないか!」
瞑想指導の時はいつも、
心の底で皆さんをそのように励ましています。
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有情の寿命は如何に決まるのでしょうか?
原則としてその種の最長寿命の範囲内で、
前世の令生業により概ねの寿命が決まります。
その上で善心を多く生起させれば寿命は伸び、
不善心が多ければ短くなります。
生きる環境によっても寿命は変化しますし、
食生活は寿命にとても大きな影響を及ぼします。
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概念上の視点に過ぎない「私」を実体ある当体と見誤り、
「私」の周りに境界線を引いて、
その内と外を比較すること。
これらは仏教における最もチャレンジングな煩悩、
「謬見」と「慢」です。
貪りや怒りを根絶する前に、
私達は先ず「私」に関するこれらの不善を、
徹底的に抑止する必要があります。
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怒りや嫉妬を相手にぶつける時、
反省や思いやりを期待してはなりません。
表面的にはどうあれ、
不快感に基づく反応を覚悟しなくてはなりません。
「怒りの抗議」は事態を改善しません。
むしろ複雑にこじらせるのです。
故に私達は怒りの刺激を貪らないよう、
いつも注意していなくてはなりません。
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瞑想における後行の重要性は、
言葉で言い尽くすことができません。
一時的であれ欲界から遠離した心の連続体は善意に満ちており、
羽の様に軽く柔軟、微細で壊れやすく、
善性が完全に心奥に沈澱吸収される時間を必要としています。
故に瞑想後はすぐに立たず、
余韻を心ゆくまで楽しんでください。
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来る日も来る日も、
決めたことをやり続け、
思考を止めて自らの身心を調教していく。
随念であれ、随観であれ、
瞑想であれ、
決めた時間に、決めた通りに、
やり続けるのが修行の原則です。
傳修院参学者は安全網を与えられていますが、
私自身は救済策なしに、
ずっと崖っぷちの修行をしています。
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失意の時、決して絶望してはいけません。
幸福の絶頂にある時、決して有頂天になってはいけません。
奈落の底にあっても、
必ず希望は見出せます。
僥倖に浴している時は、逆に必ず足をすくわれます。
世界は恐れる程には悪くないし、
期待する程よくはありません。
囚われずに淡々と歩みましょう。