精進(Vīriya)とは、
忍耐や努力ではなく、
内からわき上がる圧倒的なエネルギーです。
ふつう七割の力で働き続ければ人は疲労困憊しますが、
精進を陽転させれば、
何倍もの力が内奥からほとばしりでて、
甘美なエクスタシーの中で、
幾らでも働き続ける事ができるのです。
それが精進根の実相です。

「やってみたけど出来なかった?
だったら百回やってみろ!
千回、いや百万回でもやってみろ!」
「三年やっても禅定に入れない?
だったら十年続けなさい、いや、
二十年、三十年続けなさい。
それで出来れば大成功じゃないか!」
瞑想指導の時はいつも、
心の底で皆さんをそのように励ましています。

「学問の大禁忌(だいきんき)は作輟(さくてつ)なり」
吉田松陰の言葉です。
「学びを修める際、最もよくないのは、
やったりやらなかったりすることだ」という意味になります。
然り!
修行の推進力は正に継続から生まれます。
やると決めたら如何に苦しくてもやり続ける。
一緒に頑張りましょう!

聞法は安般念の「触の感受」の如く、
修行者をダンマにつなぎ止めてくれます。
故に法の継承である法話には、
万難を排して参加すること。
法の直接の伝授は一期一会であり、
機を逸すれば二度と同じダンマを聞く事はできません。
私は永久にみなさんの近くに居るわけではないと知ってください。

仏教では月の運行によって時を計ります。
新月、満月、上弦/下弦の半月は布薩と呼ばれ、
かつて人々は釈尊の御許に集い共に祈りを捧げました。
現代社会ではイエス生誕の年と天地創造の七日間を基軸とした
グレゴリオ暦を使わざるを得ませんが、
私個人は月の運行暦に従って日々の計画を立てています。

有情の寿命は如何に決まるのでしょうか?
原則としてその種の最長寿命の範囲内で、
前世の令生業により概ねの寿命が決まります。
その上で善心を多く生起させれば寿命は伸び、
不善心が多ければ短くなります。
生きる環境によっても寿命は変化しますし、
食生活は寿命にとても大きな影響を及ぼします。

概念上の視点に過ぎない「私」を実体ある当体と見誤り、
「私」の周りに境界線を引いて、
その内と外を比較すること。
これらは仏教における最もチャレンジングな煩悩、
「謬見」と「慢」です。
貪りや怒りを根絶する前に、
私達は先ず「私」に関するこれらの不善を、

徹底的に抑止する必要があります。

怒りや嫉妬を相手にぶつける時、
反省や思いやりを期待してはなりません。
表面的にはどうあれ、
不快感に基づく反応を覚悟しなくてはなりません。
「怒りの抗議」は事態を改善しません。
むしろ複雑にこじらせるのです。
故に私達は怒りの刺激を貪らないよう、
いつも注意していなくてはなりません。

瞑想における後行の重要性は、
言葉で言い尽くすことができません。
一時的であれ欲界から遠離した心の連続体は善意に満ちており、
羽の様に軽く柔軟、微細で壊れやすく、
善性が完全に心奥に沈澱吸収される時間を必要としています。
故に瞑想後はすぐに立たず、
余韻を心ゆくまで楽しんでください。

来る日も来る日も、
決めたことをやり続け、
思考を止めて自らの身心を調教していく。
随念であれ、随観であれ、
瞑想であれ、
決めた時間に、決めた通りに、
やり続けるのが修行の原則です。
傳修院参学者は安全網を与えられていますが、
私自身は救済策なしに、
ずっと崖っぷちの修行をしています。

想像を絶するような業果が結実するように見える時があります。
絶体絶命のピンチが突然、我が身に降りかかってきた!
しかし詳しく観察すれば、
どれ程激烈な業果であれ、
業果は静かに安らかに結実します。
その一瞬を見逃さず、智慧で反応すれば、
私達は人生をそこから好転させる事ができるのです。

朝、一切れの食バンをしまい忘れると、
夜には乾いて固くなってしまいます。
しかしもとの袋に入れれば、
翌日にはふかふかの食パンに戻ります。
孤独な修行には不善思考が頻繁に生起し、
心は柔軟さや瑞々しさを失います。
しかし道場に趣き善友と交われば、
菩提心はすぐに再び燃え上がるでしょう。

誰かのようになりたいのでもなく、
自己実現したいのでもなく、
そんな視点を持つことを余儀なくさせる、
輪廻から脱出したいのです。
極められなくてもいい、
最善を尽くすのです。
仏法僧に頼るのではなく、
固く信じるのです。
一瞬一瞬、
仏法僧を信じ最善を尽くす。
それが仏教者の本分です。

アビダンマ、中観、密教を知らずに、
セイロン大寺派の伝統にそって清浄道論を修行すれば、
ダンマの微妙なニュアンスがごっそりと抜け落ちてしまっているのを痛感するでしょう。
日本に生まれ育ち、日本の伝統仏教を身につけていることが、
いかに稀で幸運なことか、その時しみじみと実感するのです。

失意の時、決して絶望してはいけません。
幸福の絶頂にある時、決して有頂天になってはいけません。
奈落の底にあっても、
必ず希望は見出せます。
僥倖に浴している時は、逆に必ず足をすくわれます。
世界は恐れる程には悪くないし、
期待する程よくはありません。
囚われずに淡々と歩みましょう。