ガンジス河の流れのようにすべての有情が生まれ死に生まれ死んでいずれ神の御許に流れ着けるのであれば、どんなにいいでしょう。しかし輪廻は残酷です。渇愛で盲目となった有情は身の毛もよだつ無我性に救い無き苦を見るでしょう。そしてその同じ無我性が出…

私達の心の深層には、自分が重要な人間であるという認識を持ってもらいたい、という根本的な衝動があります。それはみにくい煩悩であり、私達が幸せになる上で大きな障害となります。誠実さと謙虚さがあれば、それ以上何も必要ありません。クサラの心だけが…

どんな状況においてもダンマの佇まいをその身にまとい、清らかに、そして美しくあること。自らの能力を超えて行う事ではなくして、その瞬間に出来る最善を尽くす事こそ、真摯な仏弟子の振る舞いです。2600年の時空を超えて「私はお釈迦様の弟子だ!」という…

他の一切の現象と同様、ひとの命も始まりと終わりがあります。祝福された人生、非業の人生、過去業の故に今生がどんな人生になろうと、私達は他人を決して傷つけずに生きていきましょう。それこそが最も意味ある生き方です。それさえ出来れば、私達は心安ら…

ひととして生まれるのが如何にまれなことか、そしてその短い寿命の間に誠を尽くしてやれる僅かなことが、如何に得がたい幸福をもたらすのか、一日一回、5分でいいですから、思い巡らす時間を自らに与えてください。たったそれだけで心に善思惟が生じ、私達の…

日本の仏教を葬式仏教と揶揄したり、僧侶を生臭坊主などと非難する人がいますが、僧にはMonk(修行僧)とPriest(僧侶)の別があります。僧侶は葬儀や法要を司り人々と仏教とを結ぶ大切な役割をになっています。正法を学んで人々との橋渡しをする道を選ぶの…

常の業処は非常に大切です。それが出入息念であってもBuddho-Japaであっても或いは一節のスタンザであってもマントラであってもそれが自分と精神世界を結ぶ碇(anchor)であるなら私達はその碇の上にすべての業処を構築していくべきです。碇無きものは糸の切…

仏教の修行の行く手には多くの証悟すべき智慧がまるで一里塚のように並んでいます。そしてひとつの智慧を得るたびに修行者は不可逆的な価値の転換を経験します。それはちょうど、まったく新しい地平で彼の人生が、修行が、四聖諦が、新しい価値を得てキラキ…

瞑想は心の奥深くから湧き出る自然のフローによって流れていきます。その一刹那一刹那が奇跡です。思考はフローにとって大敵です。すべてを台無しにします。一瞬の思考であっても流れを止めてしまいます。予測がつかないフローこそ、私が「完全なる受動性」…

豊かになりたいなら、布施をせよ。救われたいなら、人を助けよ。修行の法験を得たいなら、人を修行にいざなえ。智慧を得たいなら、仏法を教えよ。証悟したいなら、発菩提心に至らしめよ。利他の行が如何に必要か、自利の行が如何に非力か。釈尊存命中から現…

如実知見とは、心にうつる現象をいかなるバイアスもなく、あるがままに見ることをいいます。そんな簡単な事が何故できないのか?五蓋を抑止できていないからに他なりません。心に生起する煩悩によって、私達が本来持つ受容能力は著しく制限され、煩悩が見た…

もし存命中のお釈迦様にお会いしたなら、師の一日は人々にダンマの甘露を分け与え、ひとりでも多くの衆生を苦から救い出すことに捧げられていた事を実感するでしょう。舎利弗長老も大目連長老もみな、この聖なる使命の為に日々粉骨砕身されておられたのです…

私達の人生は外面的な事象ではなく、心で何を感じ、意図し、克服したかによって価値が決まります。同じ処をグルグルまわる膨大な想念の浪費で時を無駄にしてはいけません。人間の生は千載一遇のチャンスです。惜しげもなく与え、決していからない賢者を目指…

一切の生きとし生けるものに対する無条件の慈愛。今この瞬間に少しでもその慈愛を心に生じさせることが本当に尊いのです。自分の修行の為でも他の福利の為でもありません。無条件の慈愛があなたの心に生じた瞬間、あなたは世界で一番幸福になれるのです。無…

かつて誰でも人生を賭けて成し遂げたい大きな目標を持っていました。もうとっくに諦めてしまいましたか?しかしもう一度だけ、その夢にチャンスを与えてみましょう!実現への自分だけのRoadmapを作り、世界をよりよい場所にする為のあなたの秘密のプロジェク…

予期せぬトラブルに巻き込まれた時はできるだけ大きな視点で楽観的に問題を捉え直してみましょう。近視眼的に見れば、ひとかけらの希望も無いと思えるケースでもよい解決法は必ず見つかるものです。出来ることをすべてやってあとは三宝に委ねてしまえば、心…

歳を重ねれば重ねるほど、ひとは慢心を強めつつ自信を失っていきます。自分の存在理由が空回りし、怒りが生じやすくなります。人生のピークを過ぎてなお、怒りの連鎖に巻き込まれ残りの人生を汚染する事は、非常に有害です。死して善趣に趣くには、今から怒…

平和とは争いをしない事ではありません。貪りや怒りにより他を傷つけたいとの思いが生じても、それを抑制し慈しみと分ち合いの心で手を差し伸べる。その時人は本当の愛と平和を感じるのです。平和を得る為に他を傷つける事が容認される欲界で、永続的な平和…

幸せは欲しいものを手に入れる事で得られるのではありません。暖かい心で相手を思いやる事、相手の幸せを心の底から願う事、そんな態度から幸せは育まれるのです。自己中心的な心は、他人の利益より自らの利益を優先するが故に相手を精神的に、物質的に、或…

「有情の所有物とは自身で蓄積した業だけである」と釈尊は説かれました。「私が~!私を~!~は私のもの!」と言い続けて生きれば悪業の蓄積は悲劇的レベルになります。未来の幾世にも亘って自らその業果を刈り取らねばならぬとしたら、煩悩に耽溺する事な…

幸せになりたいなら決して怒ってはいけません。嫉妬も物惜しみもいけません。これらの感情が吹き出しそうになったら、目を閉じて、手をぎゅっと握り、深く長い深呼吸を何度でも心が静まるまで続けてください。怒りの感情は、何としてでも抑える必要があるの…

弟子と師の縁は今だけではありません。多くの場合、輪廻を超えて幾世にも亘り、精神的で特別な関係を続けているのです。もし今生であなたの「善なるものを求める想い」が熟せばあなたの師は必ずあなたの眼前に現れるでしょう。あなたは何を差し置いても彼か…

外部(Bahiddhā)の五取蘊の連続体の随念は、犬や猫など身体を動かすことが多いペットの五取蘊の連続体の流れの観察から始めることができます。彼等の身体の一つ一つの動き、すなわちCetanāで意図されCittaja-rūpaによって作られる有情の動作を仏法が鋭く明か…

私達は自ら如何ともしがたい世の中の現象についてこうなって欲しい、ああなって欲しいと願う事を止めません。しかし世界は誰の思い通りにもなりません。私達が唯一コントロールできるもの、それは自らの心ですが、それすら戒清浄・心清浄の修行によって調教…

心が興味を示した対象にではなくその対象を心がどう知覚したかに注意を向けましょう。知覚した対象に反応してどんな善心/不善心が生じたかに注意を向けましょう。今この瞬間の外界ではなくあくまで今この瞬間の心を観察するのです。心の動きを知ることこそ心…

Satiとは六門に絶えず生ずる所縁を認識する事ではなく専注すべき所縁を決して忘れず心を離さない事です。根律儀戒(Indriya-saṃvara-sīla)とは六門に侵入する刺激的感覚対象に心を奪われないように眼耳鼻舌身意の扉を閉めて専注すべき対象に心を専注させる修…

世界を読み取っていくと、善男善女が暮らす道徳的世間の足下には地下水路が流れていて、卑劣さや残酷さがうごめいている事が分かります。まるで心底に無明漏が流れているように、それは時折地表に出て、私達を襲うのです。仏弟子である私達の無条件の慈悲と…

あなたがこの人生で目指している事を私は心から応援します。どうか本当に成し遂げたい道を歩んで下さい。決して妥協せず最高の目標だけを目指すのです。如何に困難に見えても、到達する道が必ずあります。どんなに時間がかかろうとも、あなたの五取蘊の連続…

お釈迦様がĀnandaに釈尊亡き後の葬儀法や僧伽の運営を指示した時、Ānandaの目は涙でいっぱいになったといいます。自燈明等、遺言のお言葉を説かれた時は、とうとう泣きじゃくってしまい、お釈迦様に「Ānandaよ、泣くな。」とたしなまれたといいます。私は彼…

もし思考によって自らの信仰を肯定し、世間的利益の如何によってその正当性を是認するなら、その信仰は空しく、長くは続かないでしょう。一方24/7、ずっと三宝に恋い焦がれ、自分はお釈迦様の手足として生かされていると感じる激しい恋愛のような信仰は、私…