入息の緊張と出息の弛緩は一往復ごとに切れぎれに認識するのではなく、連続的に滑らかに感受されなくてはなりません。それはgambhīra-Sarabhañña(深き抑揚)と呼ばれ、聖黙の音楽のように私達を禅定へといざないます。静かに滑らかに、途切れなく反復する接触…

一切の事象は緊張と弛緩を繰り返しながら時間軸に沿って消滅に向かいます。緊張は弓を引くが如く、弛緩は矢を放つが如しです。私達の心身も入息と共に緊張し、出息と共に弛緩します。出息の時はその時執着している対象を手放すと観想しつつ身体を弛緩しなが…

いかに強固な信念であろうと、それが欲界の事象を対象としている限り必ず疑いと動揺、そして戯論が生じます。梵天界の意識である禅定は、Samāpatti(定)に基づくものであり、毎瞬毎瞬同じ質を持つ心が生起し続けます。信念も慈悲も正念正智も、この禅定を土…

修行道と長距離走は多くの相通じるものがあります。長距離で他人を意識した瞬間、たとえ3キロであっても苦痛の連続となります。外界への感覚を閉じ、入息と出息の反復だけに専注すれば、熱狂と感喜がそこにあるのです。やがて「どこまででも走れる!」という…

背丈より高い雑草原を突き抜けていくには自らが通れるだけの幅の轍があれば十分です。混沌とした世俗に於て世法の様々を読み解いて植物の分析をする事は世尊の道ではありません。脇道には目もくれず、世尊の通った轍を一目散に駆け抜けていくことだけが、こ…

四悪趣の有情は貪瞋痴から一歩も出ることなく苦しみの生を生きています。世界の株式市場を動かす原理がGreed & Fearであるように、人間界でも欲天界でも、好む所縁への貪りから生全体が突き動かされているのです。貪り、怒り、恐れ、嫉妬し、悲しんで、混乱…

入出息を意門で認識しつつ鼻孔で息の接触を感受し、どちらか一方に偏ってはならない、これがSāriputta長老のアナパナ解説です。もし難しいならその前段階として息を吸いながら入息を認識し、息を吐きながら接触を感受するようにし、心が十分微細になったら長…

世尊は比丘達に対し22時から明け方2時迄を睡眠時間としその前後は独り瞑想せよと説かれました。一日の大半を瞑想に費やす者にはそれ以上の睡眠は必要ありません。仕事や家庭を持つ現代人の場合そうはいきませんが、それでも世界が静まる束の間の時間一切を離…

僧院に居住しても孤独になれる時間は限られており聖黙を楽しんで一日を送る事は困難です。一方、禅定は梵天界に属しますから欲界の喧噪を離れ独り寂静を楽しむ環境でなければ達し得ません。故に現代では夜明けと日没、深夜と早朝をいかに活用できるかが修行…

瞑想の呼吸法:まず尾骨から頭頂までスッと真っ直ぐにし、肛門と会陰を少しだけ締め上げながら息を吸えば自然に逆腹式呼吸となります。息を吐く時は丹田をゆるめ、下腹部の緊張をリリースさせながら吐けばよいのです。腹の動きは前後1cm程度に抑え、決してそ…

昨日の講義で私は塊を形成するkalāpaは消滅すると同様のkalāpaが同様の場所に同様の働きをもって生起するが、それは同一のものではなく変壊法に属すること、故に老であり、無常であることを解説しました。中論に「諸法は不同で不異、不断で不常、それがダン…

10分間の瞑想は本来、私達を世間のストレスから完全に解放するに十分な力を持っています。うまくいかないとしたら、手放しが欠けているのです。世間から完全に離れる事を心が秘かに恐れ、瞑想中ずっと世間を握りしめているのです。手放しには勇気が必要です…

あなたの人生においてダンマの学習や実践を妨害するような事象が目の前に現れた場合、正念をもって二つのことを行ってください。1.心の底から祈ること。2. その状況を修行として受け入れ 仏弟子としての自覚をもって 誠実に対処すること。そうすれば三宝は…

心が善の対象に集中し善なる思いと言葉と行動が我が身に有りと認識すると、心に大きな喜びが生じます。その時、その喜びで心を律する事が大切です。そうすれば善の好循環が生まれます。しかし善なる喜びに無制御に耽溺すると、心の隙間に喜を伴う貪りが生じ…

日々の動きのスピードを半分に落とし、思考を止めて行ってみると、如何に必要のない無駄な動きを普段何気なく行っていたか、如何に多くの動きが、渇愛に導かれるがままに為されていたかに驚かされます。「正念を持っていたらこれをしなかっただろう」という…

得難いご縁で法を学んでも、すぐ復習して心に深く随念しなければ必要な時にその法が思い出されて自身を救うことはありません。逆にすぐ随念して心に刻みつけておけば、Satiは必要な時にその法をあなたの前に示してくれるでしょう。あなたはそれを三宝のご加…

心が所縁と一体となるためにはEkaggatā(一境性)が陽転し、Cittaや共に生起しているCetasikaをまとめてワンネスを構築しなくてはなりません。心がこのワンネスに近づけば近づくほど心生色が発する光で身体の中が明るくなっていきます。四界分別観ではこの光…

条件が揃っていないままどんなに心を所縁に向けようとしても専注を得ることはできません。坐った瞬間に、或いは入出息を意識した瞬間に、心が所縁と一体となるためには十分な前行が必要です。心は六門に生起する雑多な感覚対象への興味を失っている時のみ瞑…

Cittaが静まることと半分眠ったような意識状態とを混同してはいけません。Cittaは静まっている時、最も活性化し、対象を鋭く知覚するのです。ちょうどピンと張った糸のように、静寂な時空の中に鋭い覚醒が生まれます。禅定に近づいた心からは、キラキラ光る…

いつでも瞑想できるように誰にも邪魔されない静かな場所にあなただけのシュラインを作って下さい。神聖だと感じるもの、霊感を与えてくれるもの、明るく光り輝くもの等で自由に作ってください。あなたがその前で何時間でもうっとり座っていられるような、そ…

あなたが今何を修行していようと、修行の全行程において必ず五根の状態を確認する必要があります。坐る前、坐った後、毎回誤りなく観察しなくてはなりません。五根の状態の認識は修行の正誤や改善すべきポイントを明確に示してくれます。五根の確認をせず修…

極限まで調教し開発した結果、私達の心が何を為すことができるか、それは凡夫の智慧の伺い知れぬ領域であると仏教では説いています。これをCitta-niyāma(心決定)といいます。私達が証悟し得ると想定する智慧の領域をはるかに超えて、日々のたゆまぬ精進は…

どの瞑想にご縁を頂いたにせよ、私達は次の事を知らねばなりません。瞑想はいま自分がいる場所でないどこかに至る道ではない。瞑想はいま自分が持っていないものを得る道ではない。瞑想はいまこの瞬間への専注から始まる。瞑想により心をクサラにする技術を…

瞑想の終え方の技術というものがあります。深く静寂な時間を終えても、決してそのまま立ち上がって現実に戻ってはいけません。入出息への専注をやめた後もそのまま清らかなたたずまいの中で、心が十分満足するまでまどろんでください。その時瞑想で得たもの…

呼吸に専注する時は、大切なガラス細工を両のてのひらの上にそっとのせるように、やさしく、ひそやかに入息と出息を感じてください。呼吸を無理に静めようとするのではなく、心が少しずつ静まっていくと念じながら息の接触感覚を心ゆくまで楽しみましょう。…

サティとは、忘れるべきでないことを忘れないこと、心をそらさずに留意することを意味します。仏弟子は、過去に世尊が行われたこと、話されたことを決して忘れず、自らの身口意に照らし合わせて為すべきことを想起し、為すのです。それをもってその仏弟子はM…

私達は「一刻も早く自己完成せよ!」との世尊の教えを決して忘れてはなりません。それは自利の修行ではないか?そうではありません。利他心で修行しなければ決して涅槃を証悟できませんが、涅槃を証悟しなければ他を本当に救う事はできません。故に一刻も早…

僧院ホールで30分のChantingと1時間の瞑想を終えるとすでに5時半過ぎ。僧院の朝は白んできます。朝の托鉢の列が作られ、聖黙を保ちながら托鉢ホールに向かいます。12月のミャンマーは肌寒く、早朝はみなサンガティやブランケットを身にまとい、寒さに耐えな…

厳格な大寺派の戒律に従えば、出家者は世俗のいかなるものにも関与することはできません。現代社会でそれは実質的に不可能なのでKappiyaとよばれる代理人を通して、金銭の管理から日々必要な物品の購買まで行うことになります。この映像の紳士は私がミャンマ…

ミャンマーの僧院で、厳しいリトリートを行っている時、午後5時のティータイムだけが、唯一ほっとできる安らぎの時間でした。午後の瞑想を終え、これから夜のチャンティングに入る前のほんのひととき、甘いハーブティーをすすりながら法友と語らうのは楽しい…