五門に現れる色声香味触は蜃気楼。
過去の行為により生ずる幻影です。
思考や貪瞋痴の感情は水面に浮かぶ泡。
心底に流れる汚泥から吹き出します。
絶好調の時もピンチの時も、
貪ったら負け。怒ったら負け。
心のどこかで、これは人生ゲームにすぎないんだ、
という冷めた自覚を忘れてはなりません。

思考を止めて心を対象に専注させていくと、
徐々に身体の中が光で溢れていく事に気づきます。
暗闇で目を閉じても、まぶしくて眠れない、
という現象を経験します。
この光は心が毎瞬生成するCittaja-vaṇṇa(心生色)で、
特に心が禅定に近づき静寂になっていくと、
透明に光り輝き始めるのです。

民主主義の本懐は公平平等たる事であり、
その根本には相互への敬意と、
公正な行為への情熱がなくてはなりません。
故に人は民主的である事に命を賭け、
紳士的に負けを受け入れられるのです。
負ける苦より公正に行為する誇りが勝るのです。
不正に勝っても喜びはなく、
ただ悪趣へ転生するのみです。

現象をあるがままに観る智慧
それが正念正智です。
「私は現象をあるがままに観ている」と認識している限り、
そこに正念正智はありません。
正念正智が生起すればその認識は生起せず、
その認識が生起すれば正念正智は生起しません。
現象を観るのはあくまで念と慧であり、
「私」ではありません。

悲しみに打ちひしがれ、苦しみ絶望している人々の心に、
癒しと生きる希望を与えられる仏教でありたいと思います。
そして善男善女の真摯な祈りで、
支えてもらうに値する仏教でありたいと思います。
自分の為の仏教なら修行する意味はありません。
自利の修行で彼岸に至ることは決してできません。

智慧を悟った者は、
自らの証悟について沈黙を守ります。
自分が何を修行し、
何を証悟したかを人々に語る者を、
信用してはなりません。
自らの修行のレベルは、
自分の師に対してのみ語るのです。
同時に、他人の証悟について、
あれやこれやと噂をしてもいけません。
聖黙を守ることが大切です。

善き瞑想の師を見分ける方法。
深いアビダンマの知識を身に付けているか?
無礙解道を完全に習得しているか?
八禅九定十六観智を証悟しているか?
もし彼がアビダンマと無礙解道を順守して、
八禅九定十六観智を指導するなら、
聖者か凡夫かに関わらず、
彼は正しい修行法を教える善き師といえます。

山頂の台地を阿羅漢果とすれば、
頂きに至る登山道は様々あり、
途中で証悟する預流果の風景も、
画一的に語る事はできません。
人は各々個性的な業を蓄積しています。
預流の聖者に共通する外的特徴は、
その圧倒的な信ですが、
他の気質は実に多様で、
外から預流を推定する事はできません。

禅定に興味がある方は、
止行の修習から始めればいいでしょう。
Vipassanāに興味があるなら、
観行の修習から始めればいい。
釈尊の教えに惹かれるなら、
アビダンマから始めましょう。
どの道から歩き始めてもいいのです。
いずれSaddhāの大道に至り、発菩提し、
そこから八正道の修行が始まります。

思考はとてもトリッキーです。
どのように善なる心を持つか、
どんな善行を為すか、
如何に善なる言葉を語るかについて、
貪りの心で思考したりします。
その思考はもちろん、
善思考を装った不善思考です。
思考しながら心の中をのぞき込めば、
それが本当は善か不善か、
簡単に知ることができます。

アビダンマを学べば智慧を育てられるでしょうか?
いいえ。アビダンマは智慧のフレームですが、
智慧そのものではありません。
渇愛と執着を離れ人に分かち与えること、そして、
他の生命を傷つけず善行を為すこと。
この二つの実践によって初めて、心が清浄となり、
清浄な心に智慧が生ずるのです。

無常・苦・無我の三相の随念は、
禅定修行にとって欠かすことのできない、
大切な要素です。
三相随念は心を強力にダンマへ向かわせ、
今この瞬間に生起している禅定の、
無常性・苦性・無我性をも、
しみじみと実感させてくれます。
これが如何に禅定を高め深めてくれることか、
正に想像を絶します。

極く微細であれ、怒りや不快が生起したら、
修行の素晴らしいチャンスだと捉えて下さい。
背後に、思わぬ形で、
渇愛や強力な執着が見つかるはずです。
それらのLobhaが直接因となり、
あなたの心底に蓄積されたDosaが、
噴出してくるのです。
Dosaの感受→背後のLobha探し。
これを習慣化して下さい。

今この瞬間と共にあることを決して忘れぬこと。
今この瞬間に感受している対象から決して離れぬこと。
それがSati(正念)です。
正念が生起している心を経験すればするほど、
正念なき心を、わら草のように感じることでしょう。
正念の味わいを知らぬ人生は、
膨大な時間と想念の浪費に他なりません。

瞑想について、正しい理解が足りないと、
瞑想の入り口に立つことができません。
正しい理解とは何か?
瞑想に何も求めず、手放しでただ座る、
ということです。
これを怠ると、
瞑想やその結果に対する
微細な執着が心に生じてしまい、
その故に私達は、
瞑想の入り口に立つことができなくなるのです。