仏教修行について、
知っておくべき二つの真理があります。

1)今この瞬間は常にここにあり、
アクセスできなくなる事は絶対にありません。
私達の不善心だけがそれを見失うのです。

2)お釈迦様が説かれたダンマは、
すべて実際に経験し実証することができます。
そこに如何なる例外もありません。

常にSati(正念)を以て、
今この瞬間の観察者でいること。
妥協の余地はありません。
昨日のTVの話でいえば、
正念が生起している限り、
刻々と変化する色彩と音声から、
どんな概念や意味も、
絡み取ることはないでしょう。
色彩の所縁を色彩の所縁と知る、とは、
正にその様な状態を示す言葉です。

TVから感受するのは、
時々刻々変化する様々な色彩と、
耳から聞こえる音声だけです。
それを識別すれば、
色彩と音の生滅が延々と続く、
退屈な時間に過ぎない事が分かります。
色彩と音声から意味を絡め取り、
アタマで物語を構築することに、
何の意味があるでしょう?
そこに気づきはありません。

サイズの限界を克服して名色を識別し、
速度の限界を克服して生起消滅を観れば、
あなたは三相を看破するでしょう。
そして煩悩が根絶されます。
身口意による業の形成は止まり、
苦の原因は完全に消滅します。
それが「滅諦」です。
あなたは般涅槃を待たずに寂滅を得て、
涅槃の甘露を味わうのです。

未だ究竟法において、
Nāma(名)とRūpa(色)を識別できず、
様々な対象に対するTaṇhāを、
抑制できないうちは、
一切を空とは見ずに、
持続的に存在する現象であるかの様に扱いながら、
名色の各相を随念し、
禅定によって渇愛を抑制していきます。
その上で「一切は空」との随念に進んでいきます。

一切の現象は実在する、或いは実在しない、という見解は、
直感的誤謬に基づく心の傲慢な推論です。
五蘊・十二処・十八界は、
外界と内面の境界線である五つの浄色(Pasāda)における、
「知覚する主体」と「知覚される対象」との接触に過ぎません。
私達は実際には、それ以上何も知り得ないのです。

信がなくても気づきだけで悟りの光が得られると、
思っていませんか?
悟りはそのようには訪れません。
私達は無明の暗闇を茜色に染めるまで、
涅槃を求めて泣いて泣いて、
叫んで叫び続けなくてはなりません。
そうやって初めて、涅槃というまばゆい太陽が昇り、
私達を明るく照らしてくれるのです。

仏教の信は確証ある信?
何たる胡散臭さ!
釈尊はそんな事はお説きになっていません。
これを語った古えの碩学は、信を知らなかったのです。
泣き叫びながら三宝を求めずして、
如何に輪廻を厭うのですか?
輪廻を厭わずして、
如何に涅槃に到るのですか?
燃え上がる信が無ければ何も始まりません。

私の敬愛する或る老師は仰っておられます。
「仏教学の基礎がないということは、
秤や升なしで商いをするようなもんじゃ。
禅だけやっておればよい、ということにはならん。
禅だけではあぶない。
阿毘達磨や唯識をやらん人は、
正しい道を知らんから、
すぐに外道に堕ちてしまう。」
正に至言です。

「在家のまま涅槃を悟れるでしょうか?」
「できます。その為には、
常に高徳な師と弟子の集いに交わり、
絶えず随念し瞑想し、
涅槃を求めて三宝に泣きつくこと。
そうすれば心を汚す泥が洗い流され、
涅槃を見るでしょう。
心は泥中の針、三宝は磁石。
泥を落として磁石に吸い上げてもらいなさい。」

その肉体の連続体はあなたではありません。
その心の連続体もあなたではありません。
無機質な部品の集りに過ぎないその存在は、
瞬間で輪切りにすれば名色の集合体であり、
時間軸に沿って見れば、

多くの現象を巻き込んで進む期限付きプロジェクトです。
どこにも「あなた」という実体はありません。

アタマで理解しただけの仏教では、
心を守り切れません。
うろ覚えのダンマでは、役に立ないのです。
吹き出す煩悩と不善業果は、
津波の様に容赦なく襲いかかってきます。
ですからアタマではなく、
心にダンマを叩き込むのです。
無常性と苦と無我性を、心のヒダに浸みこませ、
踏ん張るのです。

不善心所には十分な注意が必要です。
生起した瞬間に、
素早く手を打たねばなりません。
貪りであれ、慢心であれ、
自我肥大であれ、
怒りであれ、悲しみであれ、
不安であれ、嫉妬であれ、
物惜しみであれ、悔恨であれ、
放っておけば、瞬く間に、
制御不能な感情の大爆発に、
発展してしまいます。

日々、無数の事象に遭遇する私達は、
その各々の経験に対して、
好意的に反応するか、
不快感をもって反応します。
そこには明らかに渇愛があり、
私達はその都度、それを認識している必要があります。
もし好き嫌いの反応が無いなら、
そこに渇愛はありません。
私達はその事象から自由でいるのです。

一度でもあなたに害意を持った人を、
赦すことはできませんか?
ならば、その方の弱さ、愚かさ、稚拙さ、
そしてこれから先、背負わなければならない、
荷の重さ、行程の遠さを、
想像してあげて下さい。
その方もまた、私達と同様、
無明の犠牲者なのです。
困った時には手を差し伸べてあげましょう。