ふもとから始まる道はなだらかですが、
大抵は途中で行き止まります。
道は進めば進むほど、
コースの変更が不可能となります。
頂上に近づけば道幅は狭く急勾配で、
前に進む以外、選択肢はありません。
疑いを振払い、心に信を持ってただ突き進むことで、
山頂からの全方向の視界を手にするのです。

真の謙虚さとは、
控えめであることでも、
恥ずかしがることでもありません。
自我が透けて見える謙虚さは、
謙虚さではありません。
真の謙虚さとは、
自らの心底に未だ煩悩の火がくすぶっており、
油断をすればいつでも吹き出しうるとの自覚から、
仏法僧に対して生じる、恥じ入るような思いです。

小さい子供に、
「ママには僕より大切なものがあるんだ」
と絶対に思わせないこと。
両親にとって自分が一番なんだ、と安心できて初めて、
子供は健全に育つのです。
「静かにしなさい!今忙しいんだから!」
は禁句です。
あなたは子供を静かにさせたいのですか?
子供の心に穴を開けたいのですか?

心を閉ざしている人を排除しないで下さい。
特別な心遣いと溢れる優しさを注ぎ続けて下さい。
それでも心を開きませんか?
あなたは徐々にイライラしてくる。。
でもちょっと待って下さい。
あなたの慈愛は、
彼の心の九割を満たしています。
あともう少し注げば あふれだし、
彼は心を開くでしょう。

同じ価値観を共有しているから、
誰かと共にいるのであれば、
その関係はいずれ崩壊します。
他人は他人、
あなたと同じ価値観を持つ人はいません。
人と人とをつなぐ秘訣は、
違いを認めた上で、
相互に受け入れ合うことだと知ってください。
安定した一体感は、
そのような土台の上に構築されます。

あなたの善行、学び、随念が、
正しく波羅蜜を生み、
あなたを前進させているかを知りたければ、
静かに目をつぶり、
入出息に心を向けてみて下さい。
もしあなたの修行が、
波羅蜜を生んでいるならば、
あなたの心は、
瞬時に外界を離れて内に向かい、
静寂な喜びの中で息とひとつになるはずです。

身の周りの人やものに、
いかなる執着も持たずに生きることは、
できないし、する必要もありません。
無常・苦・無我の随念によって、
今は愛着をもって共存しているけれども、
時がくれば、つるんと剥ける熟れた桃の皮のように、
見事に離貪して振り返らない心を、
大きく育てていけばよいのです。

目標を持つだけでは十分ではありません。
あなたと同様に大志を持ち、
それに命をかけてきた先人・先達のストーリーを、
できるだけたくさん心に叩き込んでください。
先人達の心を思えば、
身のすくむような逼迫感で、
いてもたってもいられなくなるはずです。
その思いを力に、前に進んでください。

あなたの生活の糧が何であろうと問題ではありません。
誰とどの様に暮らしていようと問題ではありません。
富裕も貧困も成功も失敗も、みな流れ去っていきます。
あなたが何の為に生きているのか、
どれほどの決意を持って何に向かって生きているのか。
それだけがあなたの人生の価値を決めるのです。

終活という言葉があります。
仏教では、老若を問わず、
すぐに終活を始めることを奨めています。
いつ死が訪れてもいいように、
常に心の準備をしておくこと。
身辺の対象への執着を切り捨てておくこと。
そのように腹をくくっておけば、
人は本当に自由に、
やるべき事に専心することができるのです。

どんなに安定した人間関係を求めても、
それを見つけることはできません。
二度とお金の心配をしなくていいような
経済的安定など、この世にありません。
いくら努力をしたくても、
あなたの身体はそれを支えきれません。
あなたに落ち度はありません。
これが輪廻の生存です。
出口を探しましょう。

祝福を受けて発芽するも、
未だ自らを支える力のない、
仏法僧へのナイーブな信は、
疑い深い世俗的なディベートで、
簡単に踏み潰されてしまいます。
若木は柵で護らなければなりません。
私達を打ち負かそうと挑みかかってくる戯論を避け、
せっかく芽吹いた菩提心を必死に護らなければなりません。

苦しくない人はいません。
悲しい記憶のない人はいません。
今苦しいからといって、
自分を不幸だと思わないこと。
辛い時、辛さにフタをして、
幸せであるかのように、微笑みましょう。
幸せを周りの人達に、ふりまきましょう。
そうやって幸せになるのです。
「辛」にフタをして「幸」になるのです。

「分断する」言葉と、
「ひとつにしてくれる」言葉があります。
どんなに賢い言葉でも、
そこに分断があれば、
必ず誰かの心が傷つきます。
どんなに未熟な言葉でも、
心を込めた思いが語られれば、
人の心を動かすのです。
私達は私達をひとつにしてくれる言葉の力によって、
本当に救われるのです。

ある真理を看破して悟りを得た師は、
弟子達にその道筋を言葉少なく語ります。
内的に何も体験していない求道者が、
表層的な理屈を武器に挑みかかっても、
師は決して議論することはないでしょう。
求道者にとって、言葉は彼の精神性のすべてですが、
師にとって言葉は、何の意味もないものなのです。