「私」と誤認される現象は、
刹那的に生滅する名色の連続体です。
眼耳鼻舌身意の六門を入力とし、
身口意の三門を出力とする、
無始無終の永久自燃機関とみることもできます。
眼耳鼻舌身の五門入力は変更不可の受動条件であり、
意門入力と三門出力は、
修行者が浄め高めるべき涅槃への出力です。

訊かれないのに「私は、私は、」と、
自分の事を話すのはやめましょう。
自分と相手を比較する為の質問や、
相手を批判をする為の質問をしてはいけません。
語られる言葉を静かに聞くだけでよいのです。
自分について訊かれた時だけ謙虚に誠実に応えましょう。
この簡単な心構えから正語は始まります。

死は突然やってきます。
あなたがいくら死を先延ばししたくても、
もう誰も、あなたに特別な処置を施すことはできません。
それに気づいた瞬間、
全身からサーッと血の気が引いていきます。
周りの一切がセピア色に変わり、
自ら苦の因であることを露呈します。
その時、この世で一番大切なのは、
「生きる技術と死ぬ技術」であることを知るでしょう。

知り合いの米国人の富豪の手元には、
高級品が次々と集まってきます。
彼は少し楽しみ、一切執着せず、
すぐに慈善団体に寄付してしまうのでした。
私は手離れのいい彼に、
現代社会における一つの「無執着の形」を見ます。
僅かな所有物に強く執着するより、
ある意味仏教的な生き方に見えるのです。

一度でもダンマから眼をそらせば、
離れることへの抵抗感は薄まり、
やがて心は種々の感覚的刺激対象に席巻され、
身動きがとれなくなるでしょう。
永遠と言ってよい程の長期間、
あなたはダンマを失い、
ダンマもあなたを失うかもしれません。
そうなった時、マーラ以外の誰が利益を得るのでしょう?

十代の若者が未熟な運転で老人を轢殺してしまいました。
残された老妻は賠償を求めず、警察に減刑を懇願し、
貧困で大学進学を諦めた彼に、
入学から卒業までの全費用の支援を申し出たのです。
お釈迦様もきっとそうされただろう、
彼女の慈悲は仏の慈悲となり、
彼女は天界への切符を手にいれました。

生起消滅が余りに早く、
分割して見ることができず、
持続する一つの塊としてしか認識できないことを、
Santati Ghana(相続密集)といいます。
先ず塊の無常・苦・無我を随念し、
やがて相続密集なる無明を砕破し、
究竟法で三相を随観・看破して預流果に至る。
それが釈尊本来のヴィパッサナーです。

実況中継、即ちメタ認知の視点を持つこと自体は、
気づきの瞑想でも、
ヴィパッサナー瞑想でもありませんが、
私達の日常を改善する上で大きな効果が期待できます。
例えば自らの誓願の管理人を身の外に置いて、
自分自身の身口意を制御していけば、
正道を踏み外す危険性は大幅に減少するでしょう。

私達人間には本来、
身体維持の為の食も、
雨風をしのぐ家も、
肌を覆う衣服も、
病を治す薬も、
ましてや冷房も暖房も、
保証されていません。
野生の生物を見れば分かるように、
生きることは過酷です。
生は苦の上に成り立っているのです。
私は生きることを、
その様に理解しています。

相手を打ち負かすことや、
人より優位な立場を勝ち取ることではなく、
過去の自分を越えていくことだけを目標に据えましょう。
私達は輪廻をさまよう旅人です。
三界に存在の痕跡をいちいち残す必要はありません。
絶え間なき自己超越の蓄積こそが、
いつか私達に本当の勝利をもたらしてくれるのです。

世間的成功による名誉や権力、財や影響力は、
毎年の財務諸表のようにすぐに色あせ、
枯れた藁草のように無常です。
一方、経典に登場する仏弟子達の、
誠の信、精進、離欲、智慧、忍耐、慈悲は、
時代を超えて私達の菩提心を喚起し、
清らかな涙を誘います。
人生で何が大事なのか、実に明白です。

 不快を感受する時、
明らかに外因に依るように見えても、
実は自らの過去の不善業の結実に過ぎず、
真の因は内にあると知らねばなりません。
内因を外因と取り違える時、
それは悪意(Vyāpāda)と呼ばれます。
悪意の故に他を攻撃せんとすれば、
害意(Vihiṃsa)という四悪趣への道に堕ちていきます。

偉大な仕事を為した人でも、
死して棺に横たわれば、
無常、苦、無我に立ち向かい、
遂に敗北した姿が涙を誘います。
この世では阿羅漢の死だけが偉大なる勝利です。
彼は無常と苦の輪廻から脱出し、
諸天善神の祝福の中で涅槃に入るのです。
弟子は残された自分に涙し、
師への憧憬に心を震わせます。

私達は経験の蓄積により、
慣れ(日常化する)たり、
馴れ(距離が縮まる)たり、
狎れ(傲慢となって仁・義・礼を見失う)たりします。
これらを明確に分別して下さい。
狎れる事はとても危険です。
祝福や恩恵、人の優しさや真心が、
当たり前に思え、
不満足の種となり、
遂には足をすくわれます。

善意に満ちた心の暖かさが根底で支えている限りにおいて、
世俗的な理は是認されるでしょう。
正見が根底で支えている限りにおいて、
善意や心の暖かさは、汚染なき清らかさとなるでしょう。
禅定が根底で支えている限りにおいて、
観行は如実智見への道となるでしょう。