Rāgaは普通「貪り」と訳され、
Virāgaは「離貪=貪りを離れること」と訳されます。
しかし実はRāgaの原義は「色彩」で、
Virāgaには、色を失うこと、
総天然色の感覚的刺激対象が、
突然モノトーンに見えるニュアンスが隠されています。
解脱間近な修行者にとって、
これは無上の霊感となるでしょう。
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瞑想修行の際、私達がやるべき事は、
如法に環境を整え、
如法に前行を行い、
如法に専注を行い、
日々継続していくこと。
それ以外にありません。
内的成長が早いか遅いかは、
私達が関与する問題ではありません。
これが瞑想修行の心構えです。
故に「瞑想の目的はただ座ること」と言われます。
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心の連続体は非常に頑固で、
長年に亘って心底に蓄積してきた煩悩生起の傾向性を、
決して手放そうとしません。
ですから最初は煩悩の抑制ではなく、
行苦の観察から始める事をお薦めします。
行苦とその根本因の観察・随念を日々修習すれば、
次第に煩悩生起を抑止する事ができるようになるでしょう。
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自らやると決めた日々の修行を心の弱さから一度さぼると、
翌日も怠けたくなって努力精進の糸が切れてしまいます。
サンガに趣いてダンマを学ぶ情熱も萎えてしまうでしょう。
心の隙間に「私」や不善思考が怒濤の如く侵入し、
あなたは底なし沼にズブズブとはまり、
抜け出せなくなってしまいます。
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生起し消滅する一切の現象は、
本源的に苦の性質を内包しています。
生起するや否や瞬く間に消滅していく刹那的現象に、
私達はいかなる喜びも見出すことはできません。
執着したり怒ったりする意味もありません。
そこにあるのは輪廻の闇に対する戦慄と嘔吐感、
そして一切は苦であるという確信です。
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見ている当体は眼識。
見ている対象は色彩。
色彩を映し出しているのは眼浄。
どこにも「私」はありません。
眼識も色彩も眼浄も、
生起するや消滅し、
二度と再生しません。
次の刹那には、
新たな識が新たな対象を知覚し、
そのまま消滅していきます。
これが名色の連続体であり、
その無我性です。
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眼で知覚されるすべての視覚対象は、
取るに足らない刹那的現象です。
色彩が生起し、眼浄に映り込み、
眼識によって知覚されるや否や消滅してしまいます。
もう二度と生起することはありません。
それをまるで継続的に存在する実体であるかの様に誤認すると、
様々な煩悩を生じさせてしまうのです。
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いつも何かしら心配事を抱えていませんか?
問題がたたみ込むように発生し、
少しも休まる暇がありません。
つい周りの人達や環境のせいにして、
不満の一つも言いたくなりますが、
本当の原因は煩悩に汚染された思考です。
煩悩を伴った心で考えることをやめれば、
トラブルはその瞬間に霧散します。